The story of Naocastle
Nao(直)castle(城)と自分の名前とかけて、ブログを書いていますが、
今月の7月19日(月)から毎週月曜日に自伝っぽいのをブログで書こうと思っております。
予定では11回ぐらいに分けて書くつもりです。
お忙しいところ大変申し訳ございませんが、少しでも興味があれば是非ご覧くださいませ。
僕自身が海外でサッカーなどを通して感じた事や、学んだ事を書いております。
共感してもらえるものがあれば嬉しいです。
今矢 直城
"Aiming to be a world class player would be on anybody's mind who have tried to pursue a career in this beautiful game, but I think it is more important to aim to be a first class human being."
「このサッカーという素晴らしい競技の中、プロを目指す人間の頭の中に世界一流選手になろうという気持ちは必ずどこかにあるはずです。でも私は人間として一流を目指す事のほうが大切だと思います。」
今矢 直城
The story of Naocastle ~プロローグ~
今回のストーリーを書くきっかけとなった兄にプロローグの文章を書いてもらったので、紹介いたします。
このストーリーが海外チャレンジや、なにかに挑戦する人達に対して少しのヒントにでもなればと思います。
勇気や元気を与える事ができれば最高です。
~プロローグ~
「直城、自伝を書いたらどうや?」
2008年1月、ドイツ、ミュンヘンで一緒にランニングをしながら話をした。
「直城が挑戦、経験してきたことは今後の人生で大きなチカラになるし、それをこれからの若い子らに伝えていくことはめちゃくちゃ価値のあることやで。」
こんな話をきっかけに彼がサッカーを通じて経験したことをストーリーにまとめてみようと決して得意ではない日本語や文章を書くことに取り組むことにした。
1990年のクリスマス5日前。
直城は10歳、兄の私は14歳のとき、両親と家族4人で赤道を越え南半球オーストラリアのシドニーに移住。今思えば父親もなかなかのチャレンジャーだった。サラリーマン生活15年、学生時代から行きたかったオーストラリアへの夢を現実にするため会社を退職し、現地採用でシドニーでの就職先を決める。その当時、日本の大企業の駐在員もたくさんシドニーで生活しており彼らに比べれば決して裕福とは言えない現地でゼロスタートの生活が始まった。
クリスマス前にドタバタで引越し先を決め、まずはじめに買ってもらったのがサッカーボール。本文で直城が後述するがまだ言葉もしゃべれず車にも乗れない2人のやんちゃ坊主にとって母親は頼りになる存在だった。今でこそ両親のジャパニーズイングリッシュを笑えるが・・・
季節が日本と逆のシドニーはちょうど夏休み。友達もまだできていないし学校もしばらく始まらないから家の近くの公園でひたすら2人でボールを蹴っていた。
「おー。芝生の公園すげー。」
オーストラリアでは当たり前の光景だが、土の上でしかボールを蹴ったことがない私達にとっては感動そのもの。無駄にスライディングなどをして芝生の上でサッカーが出来ることに感激していた。
オーストラリアに渡り宿題も何もない夏休みが1ヶ月あまり経ち、まだアルファベットもまともに言えない直城が地元小学校へ。
そこから9年後にはプロサッカー選手になり、その4年後には片道切符を買ってヨーロッパへ挑戦。
私も一時はサッカー選手になりたいと思っていた。
ただ、その意思が本当に強くないとスタートラインにも立てないことを直城が教えてくれた。私のみならず家族をはじめ多くの人にチカラを与えてくれる直城を誇りに思う。
そんな彼が世界中にたくさんの友人を作り多くの文化に触れ、様々なスタイルのサッカーを体験する過程には、本人しか感じることができなかった喜びや悲しみ、勇気や苦労があったことと思う。その折々に彼の悩みや喜びを僅かながら多くの人より近い距離で接することが出来た私は、彼がサッカー選手としてではなくサッカーを通じて一人の人間として学んだことを伝えたいと思いこのストーリーを書く事を提案した。
私も今スポーツに携わる仕事をさせていただいている。直城のように世界に挑戦するアスリートを支援したいと思いビジネスの世界で挑戦しているが、私達兄弟がスポーツから得たものは本当に多い。私達が育ったオーストラリアではオリンピックやプロアスリートを目指すトップアスリートに対して小さい頃からbest athlete is best person という教えがある。つまり本当のトップアスリートとは一人の人間としても一流でなければいけないということだ。
まだまだ成長しなければいけない要素は多々あるし、日々前進、日々成長ではあるが彼のbest athlete is best person への今日までの過程が、目標を立てて挑戦する若者や社会人、世界を舞台に活躍される人たちをはじめ、このストーリーを読んでいただく多くの方々のチカラとなれば我々兄弟にとってそれほど嬉しいことはない。
"Aiming to be a world class player would be on anybody's mind who have tried to pursue a career in this beautiful game, but I think it is more important to aim to be a first class human being."
「このサッカーという素晴らしい競技の中、プロを目指す人間の頭の中に世界一流選手になろうという気持ちは必ずどこかにあるはずです。でも私は人間として一流を目指す事のほうが大切だと思います。」
今矢 直城
The story of Naocastle ~30人の生徒と30カ国の人種~ 第一章
Mind, like a parachute
Only works when it's open
「心はパラシュートと似ている
機能するのは開いている時だけ」
いきなりサッカーの話をするよりは、初めの2章でオーストラリアに行った時の事など、少し僕の背景を語りたいと思います。
微妙な変化には気付いていたのですが、特に疑問に思う事もなく大阪の町でごく普通に暮らしていた小学4年生の時。
おそらく家の中で兄とでも遊んでいた僕に突然、母が前に座ってきて正座をしながら一言。
「うちらシドニーに行くけど、なおくんも一緒に行く?」。
僕は日本を離れる事に対しての悲しみというよりも何か面白そうだったシドニーライフをその時に選びました。
そんな母からのさりげない一言で10歳の時に日本という国を離れオーストラリアへと向かい、南半球の世界へと旅立ちました…
最初に過ごした1ヶ月は学校の夏休みでもあり、ほとんどの時間は兄と一緒に家の前にある公園でサッカーをする毎日が続きました。
こんな大きな芝生の公園が家の前にある事が最高に幸せでしたね。
さすがにそんな遊ぶだけの毎日には終わりが告げられ、現地の学校へと通う日々が始まることに…
いきなり現地の小学校に入れられた時の初日は、正直どうなるのかなと思いました。
英語は、自分のノートに書いてあったNAMEという単語ぐらいしか知らなくて、
恐る恐ると図書館の中にとりあえず入り、集まっていたクラスの中に入って行ったのをはっきりと憶えています。
先生がおそらく、「今日から入る新しい生徒ですよ」、見たいな事でも言って紹介してくれた後、
ジェスチャーでそこに座ってと、指示されるままに座りながらしばらく時間がたち(多分、出席でもとっていたのだと思います)
いきなり黒人の子が笑顔でよってきて握手を求めてき、"Hi, I'm Arnaud!" っと、フレンドリーに挨拶をしに来てくれたのが凄く印象的でした。
その後、昼休みでは外でスポーツをやっていたのに混じり、ラッキーな事に運動神経は良かったので気に入られて友達は意外とすぐに出来、
"here!!(ヒアー!), here!!(ヒアー!)" と言えば、ボールを投げてもらえる事を学び、
その言葉が僕にとって最初に生で習った英語の単語でもありました。
やはり、この年代ではスポーツが出来ると自然と友達も出来るもんなんですかね。
初恋をしたのも、実はこの小学校ででした。
かなり余談になりますが、その彼女は現在結婚していて幸せにシドニーで暮らしています。
更に言えば、昔よく対戦相手だった同じ年代の元サッカー選手が相手の方です。笑
そんな事は置いておいて、このクラスには30人の生徒がいたのですが、国籍も30カ国!
オーストラリアの文化を語っていると言ってもいいですね。移民が多く、考え方も違い、宗教も違い、外見ももちろん違ってきます。
しかし、お互いにその違いを認め合ってこそ初めてほんとの会話が出来るものだと思います。
この章の最初にある引用はユースの時の監督に言われた言葉ですがまさにその通りだと、生きながら実感する時があります。
この小学校にいた時は、すぐにカッとなってよく喧嘩をしていました。
何かあったらすぐに手を出していたような気がします。
今でももちろん怒る事もありますし、誰でもきっと家庭の中で、もしくは仕事場で喧嘩になる事もあると思います。
ただその時その場所で、どんな心で対応するかでは違ってくると思います。
飛行機のファーストクラスと、エコノミークラスに例えて言えば、同じクラスにいるから嫌味も聞こえてくる。
何でこんな人と一緒におるんやろう?なんで自分はこんな悪い環境におるんやろう?
環境なんて言うものは、その人の心の境涯が変わってこそ、変わってくる物なのかもしれません。
ファーストクラスの人間はファーストクラスの人間が見えて、エコノミーの人間の言う事なんて聞こえない。
もちろん、お金とかの差じゃなくてあくまで心の境涯の差だと…
僕はやはりエコノミークラスに落ちる時がありますが、強く優しい心を常に目指していきたいですね。
学校の運動会での出来事も一つの貴重な思い出です。
一昔、日本ではかけっこなどの時にみんなで一緒にゴールをする事がありましたが、
シドニーの運動会で走った時に感動した事が、1位になった後、
一緒に走った他の子達がすぐに寄ってきて、「おめでとう」、「いい走りやったな」、「よくやったな」。
と、勝った人をすぐに祝福する事。
本来スポーツはこうあるべきなのではと思います。
勝ちたければやはりそれなりの努力をしなければいけないと思うし、負けた時は潔く。
向こうの小学校には5年生から入学したのですが、実は歩いて往復1時間半かかるとこに住んでいて、
帰りは、毎日友達が乗るバスと競争しながら走って帰りながら、おお今日は速かったなあ、とかそんな事を一人であほみたいにやっていました。
シドニーに行った時のうちらはお金があまりなく、毎日バスで学校に通う友達たちを見てて羨ましく思っていたのを憶えています。
おかげで体力がつきましたが、まぬけなのところが、6年生に入りほぼ英語もわかってきて、年の初めにバスパスの申込書みたいな事で友達たちが集まっていたところに行って尋ねてみると、
離れたところに住んでいる生徒達はなんとただで1年間バスパスがもらえるんだと!
まあ1年間の徒歩通学、まぬけといえばまぬけですが、今から思うと結構笑えます。
普通気付きますね…
学校へ持っていくリュックサックに入っていたのはランチボックス、ペン、そしてノートが1冊だけ。
なぜかと言うと、初めの数ヶ月はクラスの中には一緒にいるのですが、僕が一日中する事と言えば他の生徒とは違って、雑誌を見ながら好きな写真を切り抜いてノートに貼り、その写真が車なら車で写真の隣に“CAR”と書き、単語を憶えていくことでした。
ヒアリングはクラスの中にいるだけで、みんなの会話が耳に入ってくる訳ですから自然と英語は上達。
そして数カ月後は徐々に授業にも入っていき、「トーク」と言う先生が選んだトピックの中で、みんなの前でプレゼンテーションをするプロジェクトがあって、さすがにそれを発表する時は緊張したものです。
料理がトピックだった時は母に手伝ってもらい、いなり寿司の作り方を説明して実際に作ったのを食べてもらった事もあります。
他の「トーク」をした時も母にかなり手伝ってもらい、結構大変でしたが今となれば凄くためになったなと感じています。
小学校はとにかく楽しかったし、タイムマシーンがあって戻れるならこの時期はトップ3に入るでしょう。
そしてその後ハイスクールへと…
The story of Naocastle ~俺は日本人や~ 第二章
When you give away a little piece of your heart,
you're giving away the only thing you can give away,
which, after you do, you got more left than you had before you gave some of it away.
- Don Hutson(American Sales Trainer)
「心の一部を相手に与える時、あなたは与えられる唯一の物を与えている
しかし与えた後には、与える前よりも心は大きくなっている」
ハイスクールにも入ってしまうと、さすがに勉強が難しくなるかわりに
一気に英語は上達。そしてまた人生とは色んな事が起こるものです。
ハイスクールは日本で言うと、中1から高3までが一緒の場所にいるので問題も多かったし、喧嘩等はしょっちゅう眼にしていました。
小学校卒業後、うちらの家族はシドニーから北に離れたところに引越ししていて僕の好きだった女の子とは離れてしまい、全く小学校からの知り合いがいない典型的なオージースクールで僕のハイスクール生活は始まっていきました。
学校には数人しかアジア人がいなく、ほんとうに完全なオージーばっかりなので、
単語の発音などを馬鹿にされた事もあり、それが悔しくて寝る前に言えない単語を何度も何度も繰り返して言っていました。
今では逆に、オージーよりオージーアクセントやんけって言われる時もあるぐらいになれたのはこの時のおかげです。
学校内ではアジア人が少ないのもあり、この時の時代と場所ではまだ僕みたいな存在はそう簡単に認められず、中学生ぐらいの時には、よく年上の生徒に至近距離でいきなり石を投げられたり、
授業が終わってクラスルームを移動する時には、壁にぶっ飛ばされたり、
日本人を侮辱する嫌味を言われたりするのは日常茶飯事でした。
今ではこんな事はあまり無いものの、
きっと昔の日本人はひどい事をしたんやろうなあ…とか思いながら我慢をしていたのを憶えています。
一般的に、いじめにも色々あるのかなと思います。性格がおとなしくて何も言わない。動作が少し違ったり、とろいなど。
見かけが違ったり、普通の人に比べて何かができない。
それは変えることが出来る事かもしれません。
でも日本人である事をいじめられては何も変えられません。
「俺はどこまでいっても日本人です」。
しかし、そんな中でもだんだんとですがなんとか僕は認められていきました。
どうやって?と聞かれても、一言では答えられない。
一瞬に起こった事でもなく、どちらかと言うと徐々に認められていった事であるから…
ただ言える事は、その時その時の対応の仕方があったと思うし、それを真剣に考えながら見つけていきました。
単なる冗談で言ってる時もあるでしょう。外国人は日本人に比べて冗談がきついですからね。笑
だから、ただ相手が怒るのを面白くて挑発してるだけの時もあります。
実際に面白ければ、怒るより一緒に笑ったりする時もあります。
相手はそれだけで、こいつはジョークが通じると思い、その人に対して少しリスペクトが増えるもんです。
きついジョークが通じる事は意外と大切な事だと思いますね。
そんな中でも、ブラックユーモアでも何でもなく、ただ単に日本人が嫌いな人がいる事も事実なのはもちろん知っていますが、そんな人達にも優しい心と理解する能力はあると信じているし、
日本人ていうのは、こんな人間やでっていうのを少しずつ見せていたのかもしれません。
思いきり言い合って、少し時間が経つと、逆にリスペクトが増して仲良くなったケースは皆さんもきっとあるんじゃないですか?
どんな人間でも、文化や考え方が違っても、人間としてそんなに変わらないもんです。
こんな日本人もおるねんなっていう事が彼らの中に自然と芽生えていった事だと、僕は勝手に思っています。
そんな事もありながら、今ではシドニーに帰ると、何十人ものハイスクールの友達が集まって、仲良く飲みにいきます。
もちろん昔、日本人や僕に対してよく思ってなかった連中達も一緒に。
今では一番分かち合える連中かもしれません。僕の弱いところを見せても解ってくれるし、唯一見せれる連中かも。
こんな、友達に出会えて、本当に良かったと思うし、この学校が僕にとって一番良かったんやなと思います。
本当の勉強をこのハイスクールの6年間で学んだような気がします。
科目別の授業等は、何年か経ったら頭の中から消えていき、日常生活で使う事なんてほとんどないでしょう。
「太陽のような人間になってください。
太陽のように、その優しい光で、困っている人達や悩んでいる人達を包み込んでください」。
日本の小学校は、4年生で終わりましたが、その時の担任だった先生から、わざわざシドニーまで送ってくれた物が、卒業式の時に卒業生に贈られたメッセージであり、上記がその中の一部です。
「一番苦労した人が、一番幸せになれる人です。
一番の悲しみを乗り越えた人が、一番晴れやかに輝く人です」。
同じく贈られたメッセージの中からですが、
今でも一番心に残ってる言葉の中の一つです。
こうしてサッカーなどを通じて、今、僕の周りには、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、
黒人、白人、アジア人などなど、いろんな人種、そして色んな考え方を持った、信頼できる友達が集まってきてくれた事は本当に嬉しい事です。
「これはなおくんの宝物やで」、と母にも言われた事なのですが、ほんとうに人生の宝物やと思うしこれからも大切にしていきます。
ハイスクールからの友達で、今となっては大親友のL.A.君(実名じゃないですよ)は、シドニーに帰った時には真っ先に電話して、飲みに行き色んな出来事を語り合います。
海外でプレーしていた時も遊びに来てくれて、どんな時でも励ましてくれ、これからもきっと励ましてくれる大切な親友である事は間違いないでしょう。
そしてこの章の最後に一つ言う事があるとすれば、周りからなめられるという事は確かに良くないと思いますし、黙っているだけではいけない時もあると思います。
だが、ちょっと日本人である事を、又は日本の事を侮辱されたぐらいで、怒る前に相手の意思が何なのか、
相手の日本人やアジア人に対する理解度はどれぐらいなのか、考えてから行動をとってみても良いのじゃないでしょうか。
ではいよいよ来週からは話をサッカーに移します!…
The story of Naocastle ~15歳の時、クラブチームから外されて…~ 第三章
You have to expect things of yourself before you can do them.
- Michael Jordan(1963-, American Basketball Player, Actor)
「何かを成し遂げる前に、まず自分自身が出来ると思わなければいけない」
ここからはいよいよ話をサッカーに移します。
小さい時から、僕の夢はプロサッカー選手になる事であり、それ以外になるはずはないと勝手にずっと思っていました。
ただ、実力は飛びぬけてもいなかったし、体格も周りに比べるとかなり小さかったのが事実です。
13歳の時に所属していたクラブチームには、テストで合格して入ったものの、やっとのこそで試合に出られるくらいでした。
うまいチームなんかと対戦すると、相手の選手と自分との差が信じられなく大きく感じ、
こんなところで躓いていたら、プロの道なんか程遠いやん、なんて思いながらもかまわずフィールドを駆け回って、なぜかプロで出来ると言う気持ちは変わらず純粋にサッカーを続けていました。
この当時にいたユースチームには、ジュニアチームから僕の兄がいたU-17までのチームを含めると100人以上の選手が所属していたのですが、
最終的にプロになれたのは、僕と、オーストラリア代表のキャプテンとしても活躍している
LUCAS NEILL選手(当時15歳)だけでした。
僕と彼との間には、かなりの格差がありますが…
彼はこの当時から、ずば抜けていたもいいところやったし、ダントツにうまかった。
養子として育った彼は、おそらく色々と苦労もあったのか、
シドニーに帰り、バーなどで見かけてもけっして気取りもせず普通にそこにいるローカルだと
間違われてもおかしくないぐらい人としても凄く、尊敬できる素晴らしいプレーヤーの一人です。
そんな彼の2006年ワールドカップ、決勝トーナメントでイタリア戦に最後の最後にPKのファウルを犯し、0-1で負けた試合の事を振り返るインタビューを見た事があるのですが、
彼の目はものすごぐ輝いていました。絶対に勝てると信じてやっていた顔をしていて感動的でした。
しかしユース時代にそんなにうまかった周りの対戦相手の選手達も含めて多くが、なぜプロになろうとした道を二十歳にもならぬままに諦めていったのか…
道を迷いそうになる時もあるし、色んな誘惑も出てくる事でしょう。
僕もサッカー以外にも人生はあるだろうと思うし、サッカーを続けるには犠牲にしなければならない事も
出てくると思います。
しかしどんな道を選ぶにしても、今いるその場所で、できる事を精一杯やってる人はやはり美しい。
そして、その努力が又新しい道を生み出すのかもしれませんね。
そうして、中には麻薬、女、酒等に落ちていき、僕の周りには凄い能力を持った選手達が次々とサッカーを辞めていきました。
悲しい事ではありますが、それはその人が選んだ道であり、色んな訳があったのでしょう。
理由を一つ挙げるのならオーストラリアという国が豊富すぎて、色んな選択肢があるという事も一つの原因なのかも知れません。
その中で、どこの国に行っても、結果を出して活躍するブラジル人がいるのは、生まれ持った質と背負ってる物の大きさなのかもしれません。
小さい時から、このサッカーボール一つを巡るスポーツで、海外に行って家族を養っていこうと思う気持ちの強さもあると思います。
這い上がっていこうという気持ち、賭けている物と、ハングリー精神が違うのかも知れません。
そして今ヨーロッパで活躍する、何百人という数のオーストラリア人の選手達は、
オーストラリア特有の、“NEVER-SAY-DIE ATTITUDE”、“最後まで絶対に諦めない”という強い精神を持った選手たちなのだと思います。
話をシドニーに戻すと、この僕が育ったユース時代では、
強いユースチームと言えば、ギリシャ系、クロアチア系、イタリア系など人種別でかなり分かれていて、
アジア人がこういう強いチームに入れる事はほぼ不可能だったし、実際にいませんでした。
テストに行って、どんだけよくても、ことごとく落とされる。
そのテスト場のグラウンドまで、運転があまり上手でなかったのにも関わらず遠いところまで送り迎えをし、得体も知れない○○人のおっちゃんらが、ああでもねーこおでもねーとか言っている場所にお弁当を持参しながら、何時間も暗闇の中で待ってくれていた母には大感謝です。
母は偉大ですね。悔しかったのが、いつも送り迎えをしてもらったのにも関わらず、そういうチームに一度も合格できなった事が、非常に残念でした。
この時はよく泣いていました。
負け惜しみを言えば、まだアジア人が認めらてなかったのもあるのですがこれは人種差別と言うよりは、好き嫌いと先入観の問題だったと思います。
実力が同じぐらいなら、好きな方をとる。
僕がもしバスケの監督で、二人の選手が同じぐらいの実力であれば、正直一般的にうまいと思われる
黒人のほうをを獲ってしまうのかもしれません。
今では時代も変わり、どのユースチームにもアジア人がたくさんいて、元気そうにやっています。
こういう子達を見て少し羨ましいなと思ったりもしてしまいます。
実際には嬉しい事であって、この間も僕が1軍でプレーしていた、イタリア系のクラブ、
マルコーニ(このユースチームでやる事が実は小さい頃の目標でした)に知り合いの若い選手を送ったところ認めてくれて数年間オーストラリアでプレーをした後、現在はドイツでプレーを続けています。
少し手助けになれた事と、道を少し開けてあげられた事を思うと紹介してよかったなと思います。
そして題名に在るとおり、15歳までプレーしていたユースチームから今年は獲らないと言われます。
僕にとってはかなり衝撃的な事件でした。
そのチームは大して強くも無く、こんなところでクラブチームにも入られへんかったら、
プロなんか当然無理やと思って、相当落ち込んだものです。
実はその時、趣味でバスケも少ししていて、「サッカーは多分無理やからバスケにした
ら?」と母から言われ…
その当時は、なにをいうとんねん!って思ったもんですけど、親はやはり子供の事が一番大事。
子供の事を心配して言ってくれた言葉。
実際にサッカーを続けても無理って言うほうが現実的だったのは間違いない。笑
しかし、こういう事があるからこそ、逆にできるという事を証明したくなるのが、人間じゃないんですかね?
「お前は、絶対にプロになれない。」、って言う監督ももちろんいました。
そういう人たちがいたからこそ、僕は頑張れたんやなと思うと、そういう人々に一番感謝をしなければいけません。
そんな事がありながらも、やはり僕はプロになると決めて、1年間草サッカーをしながら
学校に行く前も帰ってからも猛練習の日々を続けていました。
そして翌年、プライドを捨てて前所属していたクラブチームのテストに再び行き、晴れて合格して再びチャンスを貰います。
そこから話をおもいっきり飛ばしてしまいますが、年度ごとに着実とステップアップをしていきながら、19歳の時に日本人初として豪州1部リーグのチームに移籍をし、その後色んなチームでプレーをする事が出来ました。
そして、小さい時からの夢であった、ヨーロッパでプロになりたいという思いが膨れ上がり、何があっても、とにかく行ってみる。行ってみないとわからへん。
自分の実力でどこまで通じるのかは実際に向こうに行って肌で感じてみなあかん!
と思い、とりあえず行ってみようと決めたのが22歳の時でした…
The story of Naocastle ~ジズーと挑んだユーロピアンドリーム~ 第四章
Unless you try to do something beyond
what you have already mastered, you will never grow.
- Ralph Waldo Emerson(1803-1882, American Poet, Essayist)
「自分が既にマスターしたもの以上なものに挑戦をしない限り、成長はない」
自分で言うのもどうかと思いますが、一応それなりにオーストラリアでは年を繰り返すごとに活躍が出来たシーズンもあり、ある程度の活躍はできたと思います。
しかし小さい頃からの夢はやはり本場ヨーロッパでプレーする事であり、
なにがあってもその心は揺ぎ無くその夢を実現するまではサッカーは辞めなかったでしょう。
オーストラリアでプレーを続けながら、このままチャンスさえも来ないまま僕のサッカーキャリアは終わってしまうのかな?
なんていう不信感と怖さがあり、どうにかせなあかんと思いながらも日々は繰り返されていき、いつも通りに練習場に足を運び週末には試合をこなすという現実の毎日が続いていました。
オーストラリアにいた時でも、シドニーから離れた場所にあるチームでプレーする事はありましたが、
それでも飛行機、もしくは車で長時間ドライブすれば一応同じ国に家族が居て友達も居て、更に言葉には不自由もなく暮らしている僕は、ほんとに人間として成長できているのか?
という疑問感も湧いていました。
もちろんサッカーを通じて色んな事を学べたし、これからもきっと学んでいくんだろうなとも思いながらも…
誰も知らないところ、言葉も全くわからないところ、文化も全然違うところ。
そんなところでやってみたいという気持ちがありました。
言ってしまえば、この当時はそれがどんだけ大変な事かもわからない、あほな22歳でしたから…
とりあえずその場所に行ってみなわからんやろう、なんて無謀な事を考えていた中、
ある知り合いとの会話後…
一人の、これがまた変わったフランス人の代理人を紹介してもらう事になるのです。
フレンドリー、そしてフレンチアクセントで喋る彼の英語は非常に面白く、とてもスムーズな会話をする人でした。
代理人にとって喋りのうまさが非常に大事であるのは間違いないのですがね。
彼の名前は、ジズーとでもしておきましょう。
彼の自宅に呼ばれた時に今後どうするのかとか、クラブの交渉内容とかより、
キャビネットに並ぶフランス代表選手、ジダン(彼のあだ名が、ジズーなので)のDVD…
まさかとは思いましたがお構いなくジダンのビデオを観せられる。
その後もなにかと言うとジダンの話がやたらと多かった。
いや、ジダンがうまいのは充分知ってるからみたいな…
そんなのはどうでもいいから早くヨーロッパの話をせんかい!
と言いたいところですが、一応日本人なのでそこは抑えて、「いやあ、やっぱすげーなあ、ジズー」、
なんて機嫌をとりながら、話を進めていき一度試合を見に来て貰う事になりました。
観に来てもらった試合は優勝を決めた試合でもあり調子が良くプレーも気に入ってもらい、後日またジズーと会うことになりました。
その時に今、夏のヨーロッパ行きの格安チケットが手に入るから買っておこうというジズーの提案に乗ってしまい、数日後チケット代分の小切手を渡したその後はしばらくジズーから音沙汰なし…
そんな事は全く気にせずに、後4ヶ月ぐらいでヨーロッパかと思うと更に気合が入り、
相当練習をしました。
なんか、目から炎が出るって感じですかね??漫画みたいですけど、ほんまに練習中はそんな感じでした。
この時は目標に向かって、まっしぐらって感じで楽しかったです。
朝早くから練習するために、前の晩にサッカー仲間に電話して、アフリカ軍団らには8時半から練習やったら、
「明日、8時からな!」
それでもアフリカンタイムで、来るのは結局9時とかにのこのこと…
ほんでもって7時半とか言ったら、その時だけ7時半にぴったり来たりするからたまらんわ。
大抵、6対6ぐらいのアフリカ軍団対僕、オージー、イタリア人、レバノン人、ギリシャ人、クロアチア人らの世界選抜みたいな感じで毎日のようにやった日々がめっちゃ懐かしいです。
このアフリカ軍団の中のエジプトとモロッコのハーフのハリー君は
(時間に常に遅れる彼は、いつも電話をして伝える事がただ一つ…「Hurry up!」(早くしろ!)から)
ともう一人のオージー君は、
午後も一緒に練習して、練習後にハリー君の家に何度も呼ばれ、うまいアフリカ料理を食べたりなどしてほんまお世話になりました。
F1ドライバー、LEWIS HAMILTONにちょっと似てる、家庭教師をやっていたハリー君は、
スーパー時間にルーズで、練習をしてて、5時にレッスンがあり生徒が待っているのに、
5時になっても余裕で、まだあと1時間は大丈夫やと。
「ええええ?」
「大丈夫大丈夫、俺が遅れてくるのはいつもやから」…ってそういう問題か?
時間に遅れるのは良くないと思いますが、まあそれでもとにかくほんとにいい奴で面白い奴です。
アフリカンタイムは、ほんと受けます。
一度、ハリー君のお母さんがアフリカ人の友達に「うちの家にご飯を食べに来て」と招待したらしくて、
案の定相手の家族は時間に遅れて来たらしいんですが…
何時間遅れてきたの?と聞くと…
「四日後、一応来たよって。」
遅れすぎ!!
そこでも、ハリー君のお母さんのいいところは、舌打ちをしながらも置いてあった物を全部片付けて一から料理を作ってあげたらしい。
アフリカ軍団の中には、スダンから来た連中もいて、学校がある日突然爆発され、
気がつくと体の上にはさっきまでペチャクチャと喋っていた
友達らの腕や、体の破片がのっかているのを払い落としながら逃げてきたストーリーや、
家族全員が目の前で撃ち殺されるのを見ながら生き延びてきたリベリア人のストーリーなどを聞くと、僕がどんだけ幸せなのかと言う事を改めて考えさせられながらも、もっともっと世界を見てみたいと思いました。
色んな国に行って、色んな人々の生活を見て、触れ合いたい。
以前、オフシーズン中にフィジィという、オーストラリアの上にある島に、助っ人として1週間の大会に招待してもらった時には、現地の人たちと一緒の物を食べさせてもらったり、飲んだり、ひと時を一緒に過ごさせてもらいました。
明らかに僕より貧しい暮らしで、出てきたご飯も何日も前から置いているような感じだったのですが、
衝撃的だったのは彼らは僕より笑っていた。小さな幸せを大切にし、幸せそうに毎日を暮らしていました。
話は少しずれてしまいましたが、時が経つのは早く、6月という出発の日が近づいてきたのにも関わらず、
どこの国のどこのチームのテストに行くとかという具体的な話が出てこないので心配してジズーに電話をして聞いてみました。
「大丈夫、心配すんな。最低でも2チームは用意してあるから。今からファックスでスイスの1部チーム、
SERVETTEから君宛に来た招待状を送るわ。おそらく着いて、いきなり次の日にここのチームと合流する事になる。それでも問題ないか?」
なんて、実際に招待状のファックスが送られてきたのはいいのですが、6月の何日に出るのかも言われてなければ、肝心な航空券を、まだもらってへんやんけ!
ていうかほんまに行けんのかい?みたいな感じになってきていたので、
しつこく電話して、「ジズー!、俺は1週間以内にヨーロッパに行くから、早く受けるチームの内容と航空券をくれ」。
その勢いが利いたかどうかはわからないのですが、やっと航空券は渡されて6月16日にシドニーを出るスケジュールとなりました。
結局受けるチームはその招待状に載っていたスイスのチーム、SERVETTE以外には詳しく聞かされてなかったのですが、
「ここのチームにも知り合いがいて、ここも向こうに行けば絶対に受けれる」。
と言われていたチームは50チーム以上あったかな…笑
代理人得意のほら吹きです。
でもジズーのトークは凄くて何でも納得性があり、ああそ~か。なんて簡単に信じてしまうのです。
例えばですが、フォークを僕の目の前に持ってきて、「これはナイフやで」って言われても、明らかに嘘やとわかっているのに、
ああ、ナイフかも…って、思うぐらい話の持っていき方が凄い。
ジズーの話は出せば出すほどありますが、次の章でも彼は出てきて、又色々とやらかしますからこの辺で。
予定では、スイスに着いた次の日にチームのキャンプが開始するというので、即効合流をするという形で
シドニーを出てシンガポール経由でチューリヒ空港に到着。
着いた後、お腹が減っていたので昼食でもとろうと思い歩き回った結果、
開いているのがマクドだけで、とりあえず入ってみるとびっくり。
たか!しぶしぶとバーガー、フライ、ドリンクの極普通のセットメニュー(約1400円!)を頼み、
まあ空港やから、少し高いのかな~とか甘い考えを持ちながら一瞬で食いつくして、空港の駅の方へ…
☆ (スイスではどこでも、この値段です。)
正直言って、ヨーロッパに来る前も着いてからも給料なんかどうでもいいと思っていました。
歳もまだ若いし、2部でもいいからとりあえず僕を必要としてくれるチームが、
もしヨーロッパにもあるのであれば、そこでプレーをしたかった。
そして、一等車、二等車と電車の中にクラスの差があるのも知らず、
途中で注意されるまで間違って一等車の方に乗っていたまぬけな僕は、SERVETTEのチームの本拠地である、ジュネーブへと向かっていくのです…
The story of Naocastle ~チェックインチェックアウト~ 第五章
When you come to the edge of all the light you know,
and are about to step off into the darkness of the unknown,
faith is knowing one of two things will happen:
There will be something solid to stand on or you will be taught how to fly.
- Barbara J. Winter ( writer, speaker and muse to entrepreneurs.
「未知の世界を前にし、崖っぷちから一歩踏み出そうとする時
信じていれば、そこにはしっかりと踏める土台があるか、飛ぶという事を教わる」
快晴のジュネーブに着いてタクシースタンドへと歩いて行き、向かった先は
スイスの国境の近く、フランス国内にあるパブの上に部屋があって泊まれるところ。スイスのホテルは部屋代がバカ高くて、トイレは共同ですが、こういうところに泊まれば値段が4分の1ぐらいになるのです…
実はこの時丁度、コンフェデ杯が開催中で試合をテレビで観戦しながら明日テストを受けるはずのチームの事でジズーからの連絡を待っていました。
そしてそこへ、電話が…
「監督が変わるかも知れへんから、ちょっと問題があって、明日はホテルに残って待機しててくれ」
これがジズーからの連絡でした…
一瞬嫌な予感がしてなんか変やぞ…と思い、貰っていた招待状をもう一度見直してコピーを持っていたシドニーの母に電話。
フランス語が解る人にちょっと見せて内容を確かめてみてくれと頼んだところ…
偽の招待状だった事が判明。
別の選手に来た招待状を名前のところだけを巧妙に差し替えていたみたいでした。
しまった、ミスった。事前にちゃんとチェックして来るべきやった。
でも、ヨーロッパに来てしまったからにはそんな事を言ってシドニーに居るジズーと喧嘩しても、自分にとっては何のプラスにはならないのでここは何も言わずに知らぬふりを通して、「違うチームは、無いんですか?」
等と毎日のようにジズーに電話をする日々が続きました。
「明日はあるから!ちゃんと朝には、ホテルをチェックアウトして、いつでも移動できるように、駅の近くに居てくれ」
この言葉を何度聞いたかわからない。本当に何度きいたことか。繰り返す事といえば、荷物をパックして、毎朝10時にチェックアウトし、スーツケース、ボストンバッグ、リュックサックを持ち歩いて、駅の近くにあるバス停で夕方の6時まで連絡を待っている事であった。
スーツケースをガラガラとひきながら昼飯を食いに行く時以外は、一日中バス停で携帯とにらめっこ。
じ~っと携帯を見ながら、通り過ぎるバスを眺めたり、ペチャクチャとお喋りをしながら、旅行の予定などを立てている人達を眺める時間は非常に長く感じました。
忍耐だけはマジ鍛えられたものです。ノイローゼになるかなって思ったで、ほんま…
かかってくるはずも無いジズーからの電話。
痺れを切らして、シドニーの時間では思いっきり朝の2時とかなんですけど、そんなのは構わずいつも結局こっちから電話をして話すと、毎回巧妙に違う言い訳を使いながら、
もう一晩チェックインしてくれ、でも明日は絶対にテストがあるからの一言…
と言う事で、いつもホテルにブラブラと戻り、パブのおばちゃんに、「いや~やっぱ、もう一晩お願いします!でも明日は出るから」、見たいな感じで。
週末以外は、こんな事を毎日続けていて、ホテルの人もそんなにどうせ毎日戻って来るんやったら、なんでチェックアウトすんねん?って絶対思ってたでしょうね。
あほな日本人やな~とでも、話題になってた可能性は大でしょう。笑
騙された…との思いで胸ははちきれそうになり、4ヶ月の猛練習と時間をどうしてくれるのだと思い、空しく感じて、めちゃくちゃ悔しくて、そして悲しかった。
せっかく貯めてきたお金も、3週間近くも経ってくると限界というものが来て悲しくも、
テストすら出来ずに帰らなあかんという思いが頭の中をよぎり、かなりメンタル的にもきていたので、怒りが溜まってジズーに電話を一本…
「帰るわ!マジふざけてんなお前!今度、もし会った時はただじゃすまんからな。覚悟しとけよ。」
「どんだけ、待ってるとおもってんねん!?」
「待ってもお前の事やったら、どうせテストもないねんから、明日帰るわ!!」
ってみたいな感じで、“ファッキング”という悪い言葉を、何度使ったか憶えていないが一方的に話してガチンと切った。
数分後…
プルル、プルル…
電話が鳴り、出ると相手は、何とあのジズーでした。
なんやねん!?ってな感じで出たところ、「明日電車で、14時間離れてるロリアンと言うフランスの2部のチームが見てみたいと言ってるから、行ってくれ」と言っている。
またまた、いかにもありそうな声の調子で話しかけてくる。
「いや、もうええわ。どうせ、嘘やろ?」
こっちもやけっぱちでした。
返ってきた返事が、
「嘘じゃない。ただ、守って欲しい事が一つある。お前はあくまで日本五輪代表選手ということで話を進めている。
そして今コンフェデ杯で日本代表候補として、フランスに来ていて最終メンバーから外されて残っている事になってるからその辺はうまく頼む。」
は?俺に嘘をつけと???
☆ (実際のところ、ヨーロッパのこういうチームには世界各国のエージェントから、毎日ファックス、メール、電話等、何十本と入る中で日本人選手が、日本代表にも入っていなければ、即効電話を切られて相手にもされないのがが現実。嘘ぐらいつかないと、テストすら受けられなかった。しかし、ねええ…)
「あと、それから…」
え?まだなんかあるんかい?
「電車で、14時間離れてるところにあるから、くれぐれも間違わへんようにな。ほんでもって、一応テスト期間は朝の練習をとりあえず一回見てから決めるらしい。この練習であかんかったら、帰らせられるから、しくじんなよ!俺のエージェントとしての名前もかかってるからな。」
いやあんたの名前とかはどうでもええけど、14時間かけて移動して2時間だけの練習とかやったら最悪やんけとか思いながら、何度目になるわからない荷物のパッキングをすませて、寝台列車の切符を買いに行く。
乗る前に何度、列車とプラットフォームを確かめたか。英語が大嫌いで、英語を喋ると相手にしてくれないフランスでは、頑張りながら本を見てフランス語で駅員に何度も確かめて列車に乗ったものの、やはり心配で外を見ながらずっとチェックしてました。
はっきり言って何をチェックしていたのかわからないのですが…駅名をみたところで、合ってるかどうかなんてさっぱり…
ただ、14時間違う方向行ったら普通にヤバいなって思うと寝れるにも寝れず。
なんていう駅か忘れましたけど、同じコンパートメントに人が入ってきて。3段ベッドが並んでいて6個ベッドがある狭い場所なので、自然と会話を始めると…
ラッキーな事にその人が英語を喋ってくれたので、この電車で合ってますか?と聞いたところ、「大丈夫、ちゃんと着くで」、と、英語が大阪弁に聞こえたくらい、ほっとして…。少し話した後、朝まで思い切り爆睡。
そしてロリアンにやっと着いて、また少しトラブルがあり、2日間ホテルで待機なんですが。話を早くすればテストには行けます。
そして、クラブの関係者がもう一人のテスト生、BAKARY KONE
☆ (彼は、この後ロリアンで契約を交わして、2006年のワールドカップにはコートジボワール代表として試合にも出場。対オランダ戦で、スーパーゴールを決める。この試合をシドニーで見ていて、朝の4時ぐらいの出来事だったのですが、即効眼が覚めて鳥肌が立ちまくったのを憶えています。)
と一緒にホテルまで迎えに来てくれて、車に入った瞬間クラブ関係者から最初に言われた事が、「日本五輪代表?それで、コンフェデ杯の関係でも来てた?」
「ん?あ、ああ、そうです。」と言ってさりげなく視線を窓の外にそらせた。
別に大して見てもしない外の景色を見ながら。「さっさと話題変えろよ!!」
なんて思いながら、車は練習場へと。
クラブについての第一印象。ヤバイ。スーパープロフェッショナル。
雰囲気も施設も最高。ロリアンの町はなんか僕が夢見てきたような町並みで、ほんまよかったです。
朝の練習メニュー。ビープテストと、サッカーテニス。
ビープテストとは、レベルが上がる毎にビートが早くなり、そのビートに合わせながら
20m毎ある、マーカーに辿り着きながら、体力の限界が来たり、ビートに間に合わなければその時にストップしたレベルを記録される体力テスト。
ロリアンに着いて、今までの怒りをここで思いっきりぶつけてやるわ!と思いながら、ビープテストが始まりました。
今まででも、最高はレベル16ですが、この日はマジ限界まで走りました。
よくフランス語が聞き取れへんかったけど、レベル20ぐらいまで行ってたと思います。
ほんま限界まで走りました。全体で2位の結果。
そして、サッカーテニス。パートナーはKONE.
これも、対戦した相手に勝ってとりあえず午後の練習にも呼ばれる事に…
こうしてキャンプに出発する前の最後の練習まで1週間近く、参加する事になりまし
た。
しかしキャンプでは他の選手もテストで招待していて、その選手らも見たいのでお前は連れて行けないと、最後の練習で監督に呼ばれて言い渡されました。
外国人枠が多分埋まるだろうという事で、今は契約は無いだろうという返事を貰いながらも、お前はいいものをいっぱい持っている。今後もお前の代理人と連絡を取るし、頑張ってくれと言われて少し自信になりました。
元フランス代表のPATRICE LOKO や、セネガル代表のDFで DIOP やったかな? みたいな選手がいる中でそこそこ出来たのは嬉しかったです。
もちろん、みんなめちゃくちゃうまかったけど、何とかついていけたし良いところも出せたと思います。
ヨーロッパに来て、契約してプロになる事が夢でしたがもう一つ来た理由は前章でも述べたとおり、自分の実力でどこまで通じるんやろう?っと言う事を確認したかった事です。
ジャッキー・チェンのジャッキーと言うニックネームがキャプテンから付いて、やたらと周りの選手から気に入られたのもあったのですがここの練習はほんま楽しくて、毎日練習に行くのが楽しみでしようがなかったです。
このチャンスをくれた事に対しては、ジズーに感謝しています。
だが現実話、契約には至らなかったので又安いホテルの方に戻る事に…
テスト期間、ホテルと、食事代は、クラブが出してくれてたので、どんだけ幸せやったか…毎日食いまくった…。
でもほんとにお金がなくなって来たのでジズーにはやっぱり帰らなヤバイと伝えました。
でも、スイスの1部に最近オーストラリアの選手を送ったので、そのクラブの返事が来るまで待ってくれと言うのと、ジズーも3日後にはヨーロッパに来ると言うので大変あつかましいのは承知の上、親の知り合いの知り合いにジュネーブに住んでいる家族がいるという事でそこに1週間ほど泊まらせて頂く事になりました。
そのジュネーブの家族が旅行に出かける予定を立てていたのですが、その際にはわざわざ知り合いにまで連絡をしてくれ、旅行から帰ってくるまでの間はその方にも大変お世話になりました。
イタリア人の気さくな御主人と、日本人の優しい奥さんに、めちゃくちゃ可愛い小さい娘さんがいるジュネーブ家族にはほんまお世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。
そんな中、連絡がつかなかったジズーから、ジュネーブ空港に着いたという電話が入ります。その時でもまだ騙された事で怒りがあった僕は、向かう電車の中でとりあえず一発ぶん殴ってやろうなんて思いながら空港に着き、ジズーにあった瞬間…、これまたバカでかいバッグを提げてきて、ニコニコと歩み寄って来て得意のスウィートトークで話しかけてくるジズーは、なぜか憎めないキャラで結局殴れませんでした。
そして「今から、以前電話で話していたスイス1部のチームの連中たちに会いに、ヌシャテルという場所に行くから、連絡を待っていてくれ」との事で、その場は別れ…
そしてロリアンで評価が結構高かった事もあり、テストに来てもいいと言う事でヌシャテルへと出発。
1日目の練習前、ジズーからの一言…。
「Hey Naoki, don't fuck up!」
おい、なおき、絶対しくじんなよ!!
聞いてた、オーストラリア人選手のジョーは爆笑。
なんやその励まし方!?見たいな感じで、ほっといて行くぞ!なおき。ってな感じでスタスタへと練習場へ。
ロリアンの後って言うこともあり、少しサッカーのスピードが遅く感じ、かなり余裕で出来て正直言って最高に調子が良かった。
監督もちょっとびっくりしたらしく、ジズーも上機嫌。
次の日にあった練習試合でもまずまずのプレーで、話は一気に進みクラブハウスで会長達らとミーティング。
仮契約を目の前に出してきて、条件などもある程度提示されたのですが、監督はもう少し見たいとの事。
ここでジズーが、
「わかりました。ありがとうございます。でも、なおきはトゥーン(同じくスイス1部のチーム)からも話が来ていて、待っていられないので、明日トゥーンへと出発します。又連絡します。」
と、こっちへ向いて、オイなおき行くぞってな感じで、席を立とうとする。
この時はもちろんフランス語が全くわかってなかったのであまり状況を把握できていなく、
オイオイ、大丈夫か?と僕は思ったのですが、
焦った会長達らは、なんと…
「わかった。今晩、仮契約をしよう。正式な契約は、後日という事で。」
もちろん、トゥーンから話があるなんていうのは大嘘で、ジズーの見事なはったりですが、結果的には、ナイスプレー!!
ということで後日、晴れてスイス1部のヌシャテルザマックスとシーズンが始まる数日前に3年契約を交わす事になったのです。
これまた日本人初と縁があるのか、スイス1部リーグの日本人初でもありました。
☆(実は仮契約が決まる晩、急にロリアンからも電話が入り3カ月の短期契約の話もありました)
色んなハプニングがありながらも、掴んだ幼い時からの夢。
夢が叶って、なんて幸せやねんと感激しながらもそんな事に浸っている暇もなくヨーロッパでプロとしての生活がスイスの町、ヌシャテルで始まっていくのでした…
The story of Naocastle ~スイスでの日々パート1~ 第六章
False friends are like our shadow,
keeping close to us while we walk in the sunshine,
but leaving us the instant we cross into the shade.
- Christian N. Bovee(1820-1904, American author, lawyer)
「偽りの友というのは、我々の影のような存在である
日向を歩む時は傍にいるものの、日陰に入った瞬間に去ってゆく」
最初の3試合は労働ビザが下りなかったのと、オーストラリアでの最後の試合で
イエローカードをもらい、イエローの枚数で出場停止を食らっていたので試合には出られませんでした。
しかし監督は相当試合に出したかったのか、出場OKとなった試合からは即効メンバーに入ってベンチに座り、最初の途中出場選手として30分ぐらい使われ、数週間後にはスタメンの座を勝ち取っていました。
家、車付きの条件で結んだ契約は僕にとっては夢のような話で、
このまま試合にずっと出られれば、日本代表も夢ではないとさえ思いはじめていました。
そこへ…
グシャッ!
練習で削られ、足首の靭帯をやられて1ヶ月の怪我。
甘かった。あまりにも甘すぎた。
どんだけの人間がプロになれると思ってんねん?生活がかかってんねんぞ。
外国から来た日本人選手なんかにポジションを取られて、黙ってる訳がないやんけ。
無駄にした一日は一生取り返せない。
一日一日、100%集中して取り込む事を改めて思わせられた出来事でしたね。
練習場に行くと周りの人間からは、
「おいおい、ナオキ、ホリデーか」?
もちろん嫌味の入った冗談ですが、それが悔しければはじめっから怪我をするべきではない。
しばらくは歩く事もちゃんと出来なく、足を引きずりながらフィジオセラピーへと…
「どおや?スイスのメンタリティには慣れたか?」
スイス人だが、アメリカとかにも住んだ事がありオープンマインドなフィジオセラピーの彼が聞いてきた。
ん?具体的にどういうところがですか?と聞き返すと…
「全員が一匹狼である事かな。後は、知ってのとおりヌシャテルはスイスの中ではフランス圏に中る。
英語が嫌いな事がわかるような経験はもうしたんじゃないか?まあ基本的に、外国人を認めない傾向があるのかもな。」
確かにレストランで一つメニューを頼むのでも、郵便局で荷物を送るのでも、
英語を喋ったら思いっきり無視されて大変でした。
喋れるくせに、喋らないのは、どうかと思いますが。笑
他にあった事と言えば、ホテルに泊まっている時、シドニーに居る母や友達とかから電話がかかってきても英語で喋ると電話を繋いでくれない時がありました。
この時はまだ気付いてなかったのですが、ずっと僕や他の外国人選手達の事を無視し続ける連中がチームの中に居る事に半年後に実感しました。
半年という時が経っても、会話をしていないチームメートが何人も居ました。
喋りが大好きな僕にはこんな事はかなり珍しい事であり、冗談を言ったり、ふざけ合えないのがかなり苦しかったです。
郷に入れば郷に従え。
という言葉があるように、その国のルールに従い、その国の言葉をいかに早く覚えようとする事がどんだけ大切な事かを改めて思い知らされましたね。
やはり、習慣や言葉を習おうとする姿勢はそこの国の人々に対するリスペクトであり、フランス語を習ってはいたものの中途半端にやっていた僕は人間として失格でしょう。
「ヨーロッパのサッカーは厳しいビジネスだ。生き残るためには絶対強くなければいけない。時には嫌な奴に徹する事も必要だろう。人間関係でもプレーでも汚い事を平気でしなければいけない。」
僕が納得している訳ではないのですが、この言葉はベテラン選手、監督、代理人等、色んな人から言われました。
確かにヨーロッパでのサッカーは、もうスポーツを超えて大半にとってはビジネスでしかない。
選手なんて例えて言えば道具みたいなもんでしょう。
いい道具は監督から常に使われて、クラブからも大事にされる。
要らない道具はほったからしにされ、ゴミみたいなものでしかない。
道具箱の中の道具のように、選手も一緒の場所にはいるが、ちゃんとした話をする事はめったになくて、逆に常に気をつけていなければいけません。チームメートに変な事を口走ってしまうとすぐに悪い噂が立ってしまう。
女やギャンブルの話や昨日の晩は飲んで遊びに行ってたなんて言うと、たちまち噂にされ、あいつはここに遊びにしか来ていない等と監督やメディアの耳に入るように仕向けられます。
だから、僕も(怪しいなあ)と思う選手に対しては、しょうもない話しかしませんでした。
そんな発言を聞き逃さないと待っていたり、変な発言を煽る選手もいるからです。
悲しい事ですがほんとの友情が選手の中で生まれる事はヨーロッパでは少ないと思います。
現在FC東京の平山選手がオランダから帰ってきた時に言っていた言葉があります。
ヨーロッパでは底から笑える事が無く、苦笑いか、愛想笑いやと。
はったりばかりいう奴や、愛想笑いで話しかけてきながら、裏で落としいれようとして
いる人間達が溢れている中では無理もないかもしれません。
ほんとに悲しい事ですが、この世界で人を信じる事はあまりしないほうがいい。人を見分けられる能力を身に着ける事も大事だと思います。
僕自身は人間的にも素晴らしい選手に何人か巡り合えて、非常にラッキーだったと思います。
やはりそういう連中とは今でも連絡を取り合うほんとうの仲間たち…
The story of Naocastle ~スイスでの日々パート2~ 第7章
それにしてもヌシャテルに居た時はたいがいストレスが溜まったもんです。
アウェーの試合の時には前日にバスで移動をするのですが、僕とオーストラリア人のチームメートのジョーがたまに隣同士に座って話をする以外は、ほぼ全員一人ずつ座って、大抵3時間ぐらいのバス移動を無口で過ごすのです。
アフリカ人選手が、イアフォンで聞いている音楽の音がちょっとでも大きすぎて漏れていればたちまち注意されてました。
ジョーと僕はかなり仲が良くて、話も合ったのでよく笑い声を上げていましたが案の定、凄い目で睨めつけられながら注意されてました。笑
ホテルに着いても、服装はびっちりときめて食事のマナーもきちんと守らないと、絶対に注意されます。
クラブに恥をかかさないため、こういうマナーも必要なのです。
ジョーは、パスタがちゃんとフォークとスプーンで食えなかったので、かなり叱られていました。笑
「おい、ジョー。ここは動物園じゃないぞ。」なんて感じでね…。
これは別にルールじゃないのですが、試合の2日前から、選手があまり笑顔を見せるのは、御法度みたいな感じでして、とにかく息苦しい雰囲気ったらありゃしない。
その上に、ミーティング、練習はもちろんわからないフランス語で、テレビをつけても全部フランス語で、当然と言えば当然ですがこれが又、結構頭を痛める材料になってしまう。
更にこの時の監督は戦術確認が多く、試合前々日から試合当日までにだいたい3回行い、長い時は1時間以上のミーティングにもなるのです。笑
しかし現実そんな事は言ってられず、結果を残すか残さないかが僕の仕事。足首の怪我から復帰しても、全然出番が回って来なかった僕は相当苛立っていました。
なんでやねん?使ってくれや!試合に出してくれれば、出来るという自信もありました。
胸の内を伝えるために、監督とも話をしました。練習でも精一杯やって、ヤル気があるところを見せまくった。ある日の練習であまりにも他の選手を削りすぎてたので、監督から注意された事もありました。
その時、つい叫んで監督にこう言い返してしまったぐらい苛立ってました。
「ふざけんなよ!ここは臆病者の溜まり場か!?俺を使えよ!!」
そんな中、UEFA杯の本大会1回戦、オセール戦のリターンレッグも近づいていて、その試合には間違いなく出たかった。
その年、日本人で6人もの選手がUEFA杯本大会に出場。
僕以外は、もちろん全員日本代表の選手である中、無名でも頑張っているところを証明してやろうと思っていました。
そしてまたちょこちょこと、リーグ戦で途中出場をし始めて、オセール戦を控える週の練習ではスタメンを匂わす事もあったんですけど結局はベンチスタート。
でも、つい最近までシドニーでやっていた選手が、UEFA杯に出られる場所にいるなんて場違いだと言ってしまえばそれでおしまいですが…
試合前にスコアボードの裏側に上がっていた黄色いUEFAの旗を見上げながら、僕がここにいる事が信じられへんとも一瞬思いました。
しかし、母、祖父、祖母もシドニーからわざわざ見に来てくれたこの試合は、何があっても出場したかったのです。
オセールにはフランス代表のシセ、メクセス、ボムソン、カポ、コートジボワール代表のカルー、フィンランド代表のタイーニオ、あと名前は忘れましたが、カメルーン代表のレフトバック等がいて、そう簡単にはやらしてくれませんでした。
1試合目、相手のホームで1-0と負けているためうちらはどうしても点を決めなければ2回戦へとは進めない。
しかし、後半20分あたりでカウンターを食らってしまい0-1。
ああ、ここはもしかしてフォワードの選手しか使わへんのかな?って思ったんですけど、ラスト12分で監督から呼ばれました。
仕事は、カルーを封じる事。そしてチャンスがあれば前へ。
出てみて正直思ったのは別にできない事はない。
でもやはりこの時のカルーは巧かったです。一回もろにかわされたシーンがありましたが何とか12分間は抑えました。
試合はそのまま0-1で終わってしまったんですけど、得た物はありました。
実をいうと、弱すぎたこの時の自分の事を書くのはあまり好きではありません。
夢を叶えて、いい給料をもらっているのに幸せじゃなかった。正直、毎日が苦しくて毎日毎日帰りたいと思っていました。
冬休みに、ジョーと一緒にシドニーに帰る事が決まっていた二人は、毎日のようにカレンダーを見ながら一日ずつ、ペケをつけながらカウントダウン。
毎日、二人で愚痴りながら、励ましあいながらなんとか12月の冬休みが来たという感じです。
しかし最後の試合の1週間前、僕を含める3人の外国人枠選手が解雇を言い渡されます。
フランスから新しいスポンサーが入り、彼が他の外国人選手を連れてきたいとの事で必要なくなった3人の道具はゴミ箱へポイと…
ところが60%以上の試合に出ていると、解雇は出来ないという項目が僕の契約の中にはあり、ジズーと相談したところ、僕は最後の試合に出ればぎりぎり60%達成をするということで、ここは黙っていようと言う事にしたところ、その時調子が良かった僕は最後の試合をスタメンで出ることになります。
うまくやったとジズーは言ったが、この時黙っていた事が後になって少し裏目に出てしまいました。
話を飛ばせば次の9ヶ月間は、残りの契約期間の給料を巡って、裁判沙汰になりかけます。そしてもう裁判になるっていう寸前に僕に就いてた弁護士が言ってきました。
「契約上だけでいけば、100%お前が勝つ。だがここはスイスだ。外人であるお前に対して、全員が敵になるであろう。
そして解雇を言い渡された後、1週間以内に抗議の手紙を書かなかった事は間違いなくマイナスになるはずだ。
何も言わずに黙っていた事が少し裏目に出たかもな。でも最後の試合で60%以上か以下が決まる中では無理も無かった。
とにかく、それらの事を踏まえたら、勝算は50/50かもしれない。このぐらい低い勝算なら俺には裁判の費用は払えない。そのリスクはお前が取るというなら弁護をしてもいい。」
裁判の費用は安くなく、なによりもこんな事でもし裁判に勝ったとしても、変な意味でサッカー界で有名になるだけで、今後のキャリアには良くないかなと思い撤退することを考えました。
厳密に言えば、この9ヶ月間はスイスの2部でプレーしており、新しいシーズンが始まった2年目の6月には、労働ビザが未だに下りないというハプニングがあり、毎日練習に行きながらも、試合はスタンドから観戦という日々が続きました。
この日々は本当に苦しかった。契約が目の前にあるのに、試合に出られない…
しかし僕一人の力じゃ何も出来ない。歯を食いしばりながらスタンドで観戦をしていた時間はあまりにも寂しかった。
練習でも必死に頑張っていた僕に気をつかって声を掛けてくれる監督や選手がいる事も逆に苦しかった。
2004年から外国人枠が5人から3人に減り、去年までEU圏の選手は外国人選手扱いだったのが、それが無くなり、外務省の言い分ではフランス人とかイタリア人を外国人枠じゃなくて取れるのに、なぜ日本人を取るんだ?という事でした。
更に言えば、この2部のチームもヌシャテル州にあり、ヌシャテル関係者がスイス外務省と繋がりが強いので、阻止をしていた可能性は高いです。
ビザが下りなければ、国を出る事になり、さすがに裁判にはしないだろうという事も計算済みだったのかもしれません…
"Aiming to be a world class player would be on anybody's mind who have tried to pursue a career in this beautiful game, but I think it is more important to aim to be a first class human being."
「このサッカーという素晴らしい競技の中、プロを目指す人間の頭の中に世界一流選手になろうという気持ちは必ずどこかにあるはずです。でも私は人間として一流を目指す事のほうが大切だと思います。」
今矢 直城
The story of Naocastle ~スイスでの日々パート3~ 第八章
標高1000mの場所にあるこの2部のチームは、ヌシャテルの後、
冬休みが終わった1月からずっと半年間ほとんど雪が降りっぱなしでした。
マイナス20度以下という気温が続き、練習も氷の上でするときがよくあって、メンタル的にもかなり参っていたのが事実。
しかしこれがまた不思議な事に、そんな気温にもしばらく居ると結構慣れてくるもので、長袖にジャンパーを羽織るぐらいだけで大丈夫になってくるのです。
氷の上での練習が終わって、ふと髪を触ると髪の毛が凍っていた時はさすがにびっくりしましたがね。笑
サッカーの環境もヌシャテルとは無論かけ離れていて、ほとんどの選手はサッカー以外に本職を持っているので、いつもアマチュアのように夜からの練習…
街中を歩いていても、5分ぐらいで全てを回れる“超”田舎町を歩いていて、一体僕はここで何をしてるんやろう? と自分に問いかける毎日が続き、人生で初めて自殺する人や、薬に落ちていく人の気持ちが一瞬わかったといっても過言ではありません。
ああ、こうやって人は落ちていくんやなって…相当、メンタル的に参ってましたからね…あん時は。
住んだ方はわかると思いますが、欧州では太陽がほとんど見えない暗い日々が何ヶ月も続く時があります。
そしてやっと季節も変わり、太陽が見え出してきた新しいシーズンの中その日は訪れました。
この日本人選手は絶対に必要だと外務省にも手紙を送り、色んな政治力を持った人にも頼み続けていてくれた監督から、練習の前に部屋に呼ばれました。
内容はわかっていた。イエスかノーかの問題だけ。
答えはノーでした…
労働ビザは下りなかった。残念だが、今シーズンは無理だと。
苦しかった毎日に、更にとどめを刺された感じでした。
この時の出来事で、“スイスでの日々”章の最後に笑けるストーリーがまたまた生まれてしまうのですがね。
部屋の中ではしばらく沈黙の時間が続いたのですが、その後パスポートなど色んな事を処理している間にも時間は経ち、いつの間にかチーム練習は終わっていました。そこで僕は何を思ったのか…腐っていても意味がないと思い、ボールが入ってるバッグを持ち上げながら、一人で練習場へと向かっていきました。
ここで話を終わっていれば、一応腐らずがんばってえらいね…ぐらいで済んだのかも知れませんが、ここからがストーリーの始まりです。
散々走って、シュートを打ちまくった後、引き揚げて控え室へと戻ると…
ガーン…クラブの人もみんな帰っていて鍵がかかっとるやんけ!
マジ焦りました。
家の鍵も財布も携帯ももちろん全部、控え室の中。
その時、一緒に住んでいたチームメートの家がグラウンドから走って10分ぐらいのところだったので、スパイクのままボールをほったらかしにして、コンクリートの上をダアッシュ!
はあはあと息を切らしながら、着いて。ピンポーン!ピンポーン!
と、その時。あ!そうやった、あいつ今日、車で30分離れたところの彼女のとこに行って泊まってくるって言ってたな!!
その先、更に10分走るともう一人のチームメートの家があるのを知っていて、行くと誰も居ない!!
そういえば!!こいつも同じような事言ってたっけ!?
辺りも暗くなってきて、しかも寒くもなってきて、ヤベーどうしよう!?とか思いながら。
あ!そうや!マッサージ師が控え室の鍵を持ってるし、彼の家には一回晩飯に招待された事がありました。
だが、彼の家がどこかとは、はっきりと憶えていなく坂を上がったり下がったりしながら、かなり走り回ったのですが結局見つからず…
ふう…とかため息をついている場合じゃない!!ほんまブルーでしたわ。
そこへ、新たなアイディアが!
あ!そういえば…!マッサージ師の仕事場ってグラウンドの近くにあったよな?
ってひとり言を言いながらまたグラウンドへ走っていく。
なぜそこへ行ったかといえば、彼の電話番号がそこに貼ってあったのを思い出したからです。
そして着いて…あったー!!俺って天才やわとか思いながら、公衆電話へと向かいました。
そして公衆電話に着いて。うわ!俺ってやっぱめっちゃあほやわ。
金が無いのに掛けられへん!!
そこへ…ん?これってテレフォンカードか?と公衆電話の近くにあったのを試してみると、
そんなにうまくはいくはずはなく、案の定クレジット切れ。
しかーし、そこで! シドニーとか日本に国際電話を公衆電話からあるカードを使って掛けていた僕は、これでスイス国内も掛けれるんちゃうん?とか思いながら、まず初めに掛けるフリーダイアルの電話番号を思い出しました…
さすがに結構掛けてるだけあって、そこへはとちゃんと掛かったのですがここからが問題。そのカードのクレジットが切れると新しいのを買いに行くので、その後に押さなければいけない16桁の暗証番号は毎回違ってくるのです…
こんな感じやったっけ?って押すと、2回目でなんと!!!繋がった!またまた、俺って天才!とか思いながら、マッサージ師に掛ける。
クレジット切れ寸前で状況をなんとか説明できて、「今はマッサージのお客さんが来ていて手が離せないけど、家の者がすぐグラウンドに向かうよ…」と。
ああ、よかったあ。セーフ…ってな感じで、もう辺りは真っ暗になっていたのですが、今度は安心して徒歩でグランドに向かい、無事に控え室を開けに来てもらいました。
いやあしかし大変でした。大変な事は続くものです。笑
とまあそんな事もあったのですが、契約があったのにも関わらず、スイスに残れなかったのは事実であり、空しさ、悔しさ、そしてどうしても納得がいかない自分だけを残しつつも、チューリッヒ空港から帰国をするはめに…。
その時、オーストラリアで初のプロサッカーリーグが始まるという話を聞いており、自然というか仕方なくというか、目標はそちらの方に移されていました。
そして、シドニーに帰りもう一度イチからやり直そうと思いました。
スイスでの日々の最後に、松下幸之助さんの「道」という好きな言葉を引用いたします。
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない自分だけしか歩めない、
二度と歩めないかけがえのない道。
広いときもある、せまいときもある。のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もある。
なぐさめを求めたくなる時もある。
しかし所詮はこの道しかない。
あきらめろというのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、
ともかくこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。
道をひらくためには、まず、歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ、遠い道のように思えても、
休まず、歩む姿からは、必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。
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"Aiming to be a world class player would be on anybody's mind who have tried to pursue a career in this beautiful game, but I think it is more important to aim to be a first class human being."
「このサッカーという素晴らしい競技の中、プロを目指す人間の頭の中に世界一流選手になろうという気持ちは必ずどこかにあるはずです。でも私は人間として一流を目指す事のほうが大切だと思います。」
今矢 直城
The story of Naocastle ~Aリーグと骨折~ 第九章
People who have accomplished work worth while
have had a very high sense of the way to do things.
They have not been content with mediocrity.
They have not confined themselves to the beaten tracks;
they have never been satisfied to do things just as others so them,
but always a little better. They always pushed things that came to their hands a little higher up,
this little farther on, that counts in the quality of life's work.
It is constant effort to be first-class in everything one attempts that conquers the heights of excellence.
- Orison Swett Marden(1850-1924, American author, founder of Success Magazine
「価値あるものを成し遂げた者は、物事に対して求めるハードルが非常に高い
彼らは並の評価では決して納得がいかない
己の道を狭くして、負け道にしか辿り着かないようにならないよう
他の人間よりも常にもう少し頑張り、目の前にある物事を常にもう少し良くしようと踏ん張り、
こうして、常にもう少し上へと考えながら生きる
そこに人生の質というものが生まれる。
常に、何事に対してでも、一流になろうという者に最高の勲章は与えられる」
日本経由でシドニーに到着して、元監督に一本の電話を入れた。
「監督。今シドニーに戻ってきてるんですけど、練習参加って、できますか?」
この監督にはかなり昔からお世話になり、シーズン途中だったのにも関わらず契約をして1試合目からスタメンで使うと言ってくれた、この監督の下でプレーを再びする事になりました。
前章でも述べたとおり、この年からAリーグというオーストラリア初のプロリーグが始まると言う事もあり、
シドニーのリーグにはAリーグ関係者がよく試合に見に来ていたのもあったのでまずプレーする事が一番大事だと決断をしました。
この時、既にヨーロッパで起こった事に関して吹っ切れていた僕は、自分でも驚くほど調子がよく、
リーグ戦残り6試合で3得点5アシストをしてチームも4勝2分けで3位からいっきにリーグ優勝。
オーストラリアの球際の強さには昔はどちらかというと慣れで対応していたところがありますが、スイスに行ってから向こうの体幹トレーニングを真面目にやって、相当バランスが良くなり、1対1の場面で相手をほとんど潰していた僕に、監督も球際が恐ろしいほど強くなったなとビックリしていました。
僕も細身ですが日本人もヨーロッパの体幹トレーニングをきっちりやれば海外でも余裕で通用すると思います。
そしてシーズン中にAリーグの3チームから話があり、一番先に正式なオファーを出してくれた、ニュージーランドナイツと契約する事になりました。
この時リーグにはまだ8チームしかなく、しかもチームごとに20人しか契約ができないというルールがあり、どこかのチームと契約を交わす事が先決かなと思ったのと、ニュージーの監督が相当気に入ってくれた事もあり話はすぐに成立。
シーズン前のキャンプが始まる6月までは、今居るシドニーのチームで残って試合に出続けると言う事で話は決まっていたので残って試合に出るのですが…
試合中、
ボールが頭の上に…高くジャンプ!ヘディングで相手と競り合って…
あ、バランス崩れた…あ、やばい。左足のひざが伸びきった状態…
着地の時にもろに左足首に負担が掛かる…
パキッ!
この音は僕には聞こえなかったのですが、サイドラインにおろされてからもう一度立って試合に戻ろうとした僕にフィジオセラピーが言う。
「パキッって言ったのは聞こえたから、ナオキ辞めとけ。明日、医者に行こう。」
試合が終わり、体も冷えてきたころに痛さがひどくなってきました。
初めて(やばい…)と思いながら、松葉杖を借りて翌日お医者さんへ行くと…
7cmの骨折。見事に折れていたらしい…
「まじっすか??」それはないっしょ…
事実を、ニュージーの監督に報告しなければいけなく、重い気分だったのですが受話器を取って電話をすると…
「まあ、仕方ないやろう。出来るだけ早く治して、ニュージーに来た時に会おう。
こちらに早く来て、リハビリを始めてもいいよ。」とポジティブな返事を貰えたので、少し早くニュージーに行きリハビリを始めることになりました。
キャンプの時点でやっと歩けるようになった僕は開幕戦には無論間に合わず、5試合目になって、やっと試合に出れる状態に持っていき、骨折から5ヵ月後やっとピッチの上に戻れるようになります。
そもそも、怪我はどうして起こるのか?
これは僕の経験上オンリーの話になってしまうのですが、あくまで自分が甘い時に怪我は起こっています。
ちょっと調子に乗ってたり、油断をしている時、集中していない時、100%で練習、試合に取り組んでない時に怪我は来る。
準備が悪かった時もあるでしょう。ちゃんと、睡眠をとらなかったり、食生活があかんかったり。
怪我は仕様が無いもので、不運と言う人もいると思います。確かにスポーツには付き物なのかもしれません。
ただ、怪我をした時の事を振り返ってみて、よく考えてみればどこかで油断をしていた自分がいると思います。
怪我が治ってからは、1試合を除く12試合中11試合に出場して、21試合しかないシーズンなので、
残り5試合しか残ってなかったのですが、そこへまた大きな怪我が…
試合中、おそらくゴールになっていたところを、相手のシュートに対してダイブしながら足で阻止するのですが、至近距離での弾丸シュートが足のつま先に当たって、伸びきっていた膝は捻られて靭帯がぶっちりと切れ、全治3ヶ月…
一瞬マークが甘かった。マークが少し外されていて、間に合わずダイブまでして止めにいかなあかん羽目に。
シーズン残りの試合はもちろん出られず、監督に見放された事だろうと思ったところへ、怪我の翌日の練習場でアイシングをしていた僕に監督が寄ってきた。
「ナオキ。来シーズンはどうするんや?」
まだ決めてないですよと答えると。
「ここで、もう1シーズンやらないか?俺はお前の事を認めている。周りの選手からも気に入られてるし、何よりもこの数試合
いいプレーが続いていて、もっとお前のプレーを見たかった。怪我をしてしまって本当に残念だ。」
再契約はないと思っていたので、意外だったのですが、ここはとりあえずお礼を言って考えさせてくださいとだけ言っておきました。
なぜ、そんな素っ気のない返事をしたかというと僕にはまだ迷いがありました。
もう一度ヨーロッパでプレーをしたいという気持ちが強く、Aリーグにいてもその道はなかなか開かれないし、なによりも人として成長できるかどうかが一番のクエッションマークでした。
元ジュビロの藤田選手が、オランダから日本に帰ってきてJで再びプレーをしだしてしば
らくしてから言っていた言葉があります。
「言葉もなにもわからないところがいい。またそういう場所へ行ってプレーをしたい。」
僕もまた似たような気持ちだったし、そういうところでプレーをして更に人間として成長したい。
得るものは必ずあるはず。
そういうことで、ニュージーの監督にはそう伝え、Aリーグからは去る事にしてシドニーに戻ってリハビリを続けながら、またまた元監督のところでお世話になりながら、ヨーロッパへのコンタクトを取り続ける日々が続きました。
しかし、一向に来ないヨーロッパからの話…
お世話になっていたシドニーのチームのシーズンも終了間際…
と、そんなところへ一つのメールが届きました…
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"Aiming to be a world class player would be on anybody's mind who have tried to pursue a career in this beautiful game, but I think it is more important to aim to be a first class human being."
「このサッカーという素晴らしい競技の中、プロを目指す人間の頭の中に世界一流選手になろうという気持ちは必ずどこかにあるはずです。でも私は人間として一流を目指す事のほうが大切だと思います。」
今矢 直城
The story of Naocastle ~全ては自分~ 第十章
It is not the critic who counts:
not the man who points out how the strong man stumbles or where the doer of deeds could have done better.
The credit belongs to the man who is actually in the arena,
whose face is marred by dust and sweat and blood, who strives valiantly,
who errs and comes up short again and again,
because there is no effort without error or shortcoming,
but who knows the great enthusiasms, the great devotions, who spends himself for a worthy cause;
who, at the best, knows, in the end, the triumph of high achievement,
and who, at the worst, if he fails, at least he fails while daring greatly,
so that his place shall never be with those cold and timid souls who knew neither victory nor defeat.
- Theodore Roosevelt(1858-1919, Twenty-sixth President of the USA)
"Citizenship in a Republic,"
Speech at the Sorbonne, Paris, April 23, 1910 )
批評する人達が偉いのではない
彼はこうして崩れていった‥彼はもっとこうすべきであった‥と指摘をする人達等ではない
名誉は、実際に戦場で戦い、顔はほこりと汗と血でまみれながらも、前へと猛進して行く男の中にある
何度も何度も、もう少しのところで手が届かず失敗を繰り返す
努力には失敗や届かない物は付き物
しかし価値ある因の為に男は壮大な気持ちと全てを捧げられる力を持ちながら歩む
待っているのは最高の勝利の勲章である
万が一失敗をしたとしても、その男は全てをぶつけて負けていったのである
その男の魂は、勝利か敗北を知ろうともしなかった冷たくて臆病な魂な人間達とは一生一緒にする事が出来ない
「シドニーのシーズンがもうすぐ終わるんでしたね。」と、
日本の知り合いからのメールが入っていて、
「日本のチームのテストに来ませんか?」と言う内容のメールでした。
僕は日本では一度も認められた事が無く、すぐにはそう思わなかったものの、いい機会かなとも思い始めました。
日本で大活躍をすれば、ヨーロッパの道へも自然と拡がるであろう。
そんな事を思いながら、日本行きの準備をを着々と進めていました。
そしてシーズンが終わると同時に日本へと出発。
数ヶ月間、何チームかを廻りました。
しかしどのチームからも納得がいくようなオファーはなく…
その後若干やけくそになり、ベトナムのチームへにもテストを受けに行きました。
結果はもちろん駄目。
気持ちがないところに最初から行くべきではないという事を学びました。笑
でもベトナムは楽しかったし、飯も最高にうまかったです。
僕が自分でラッキーだなって思うところは、海外に行くとご飯が合わないとか言う人がいますけど、
僕はどんな料理も好きで主食にもこだわりはないので、
行ったどの国の料理もうまく、食事の心配だけは全くありませんでした。
料理をするのもかなり好きなので一人の時は適当にその日の気分と、ある材料で作っていました。
ヨーロッパでプレーしたいんやったら、ヨーロッパに行けばええやんけ…
とも少し思っていましたが、スイスの事もあったし、当てもなしにスーツケースをぶら下げて又行くのはさすがに無謀すぎると思う気持ちの方が断然強く…
そして何よりも、いつの間にか僕は周りの人の言う事を信じきっていたのかもしれません。
それは、
「代表歴のない日本人が、この年齢でヨーロッパに行って契約を取れるはずが無い。」
「無謀もいいところや。自分がヨーロッパのクラブ側になってよく考えてみろ。」
この人達とは別に素人ではなく、実際にヨーロッパで長年プレーしていた選手達や、ヨーロッパに強い繫がりがある代理人たちですから説得力もあり、
言ってる事はごもっともで、僕でも難しいのは元々わかっていたのでいつの間にか納得をしていました。
そしてお金を貰ってサッカーができる事の幸せを改めて思わされた時期でもありました。
この章の題名である、“全ては自分”ですが、
この言葉は僕の大好きな言葉で、小さい時にはよく細いバンドにマジックで書いて腕に付けていた事があります。笑
やはり、周りが何を言おうと最後は全て自分で決める事。
自分の人生のドラマは自分が決めていくもので、道を切り開いていくのも自分であり、どの道を選択するのかも最終的には自分。
Life is what you make it!
人生とは自分で作り上げていくものだ!
小学生、シドニーの学校の時の先生に言われた言葉です。
この言葉はいつの間にか忘れていた気がします。
いつの間にか、ヨーロッパは無理やと思っていました。
しかし、まだ何も始まってはいない。
「そこでプレーしたいんなら、どんだけ無謀でも、もう一回行ってみろよ!この意気地なしが!!!」
もう一人の僕が叫んでいました。
現実厳しい事なんて、はっきり言って周りの連中が言わなくても充分わかっていた事。
でも、もう一度がむしゃらに夢を追いかけてみたかった。
死に物狂いでやって夢を現実にして、周りの連中にもですが何よりも僕はまだできるという事を自分自身に証明したかったですね。
そして、悩んで困っている人たちには何も無いところから這い上がれる事を証明して、
少しの勇気と希望を与えたいなんていう生意気な事も思っていました。
僕なりに悩んで悩んで、僕自身が決めた道。間違ってるわけが無い!
どんな時でも、自分の心の気持ちを大切にした方がいいと思うし、そうしていきたい。
Whether you think you can or think you can't, you're right.
「出来ると信じるか、出来ないと信じるか、そのどちらを選んでもあなたは正しい」
これはヘンリーフォードの名言。
思考は現実になる。出来ると思えば出来るし、出来ないと思えば出来ない。
正直この時は、チームが無くて僕はプロでやっていけるという自信を全て失くしていました。
しかし、そんな時だったからこそ気付けたのかもしれないですね…
それはどんな時でも、最後まで自分を信じる事。
少なくとも自分だけは自分を信じていけなければ、誰も信じてくれないかもしれない。
無難に生きよう、無難にやっていこう。特に日本の社会では多くの人が思う事かもしれません。
言いたい事が言えなくて我慢していたり、和を保つために踏み切れない…
でも今いる親友の中には、凄い言い合ったり大喧嘩した後にやっと、
お互いに対するリスペクトが増してその後に親しくなった事があったのではないでしょうか。
この無難という世界から逆らう事は意外と簡単だと思えば簡単な事で、
ほんの少しの勇気を出して一歩踏み出せるか出せないかの違いなのかもしれません。
どんな仕事でも勉強でも、海外に一人で行って道を切り開こうとしている人達にはほんとに頑張ってもらいたいし、応援しています。
しかし海外に少し行って意見を持ち、INDIVIDUALITYを大切にする外人を見習い、
ただ自分の思った事を言いたい放題の人達では駄目です。
それでは全く理解力が無い人間で終わってしまいます。
その場所にはその場所のやり方とルールがある程度あるでしょう。
他の事にに関しても結局は理解力だと思います。
宗教なども大抵は素晴らしい教えなので最終的にはほとんど変わらないし、どんな宗教をやっていようが逆にやってなかろうが幸せになれると思います。
僕の周りには違う宗教の人間がいて、色々と話せた事は凄くラッキーでした。
どんな宗教でも結局、理解力があるかないかの問題だと僕は思います。
理解力が無い人がいるから、過激なグループが生まれたり、一般の人々に迷惑を掛けるような人達がでてきてしまう。
ワーキングホリデーや、勉強等で違う国に行っている方々も最初は凄い頑張る気持ちがあるんでしょうけど、壁にあたりその同じ人種同士だけで結局つるんでいる光景をよく見てきました。
大変なのはもちろんわかっていますが、それなら日本でも同じような事が出来る。
僕にとっても、スイスで一番大変だったのは言葉でした。
サッカーでの監督や周りの選手からのプレッシャーも半端じゃなかったのですが、言葉からのストレスは結構きていました。
毎日仕事に行って言葉が解らない中で結果を残そうとするのは意外と大変です。
やはり今いるその国の文化や言葉を習う事は非常に大切だと思います。
今いる場所で、死に物狂いで頑張った事は永遠に残るものだと思います。
人生に無駄な事はないし、必ず全ての出来事には意味があると思います。
そしてきっとみんな、なにかどこかで繋がっているから願いは叶うのかもしれません。
だから信じていれば、物事は動き、人が動き、気持ちが動くような気がします。
先ほども書いたように正直僕の中でもヨーロッパに戻る事はかなり厳しい事だとずっと思っていました。
でも難しいと思うと、更に難しくなるもので道も開かない。
人間関係でも何でも、やはり思った事は現実となっていく。
あの人にこんな事を言われたくないなって思うと、たくない…と思っていても結局はその事を思っているから、言われてしまう。
これはサッカーのプレーでもよくあることです。
ミスをしたくないと思っていてもミスの事を考えているからミスを犯してしまう。
こういうところを常にポジティブでいいイメージが描けるように、これからもっと改善していきたいですね!
それはどんな職業を選んでも変わらないと思うからです。
話を戻すと、スイスにチャレンジした時と同様、僕は再び自主トレーニングを始めました。
前みたいにアフリカ軍団たちや周りのみんなはもう既に仕事があったりして、ほんとうに1人だけの練習が多く、27歳にもなって無所属で毎朝起きて自主トレーニングをするのが全く苦じゃなかったと言うと嘘になります。
それでも自分の考え方をまず変えないとヨーロッパへの道は開かないと思い、
自分で自分を騙すように、とにかく出来ると信じきってもう一度ヨーロッパに再挑戦しようと思いました…
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"Aiming to be a world class player would be on anybody's mind who have tried to pursue a career in this beautiful game, but I think it is more important to aim to be a first class human being."
「このサッカーという素晴らしい競技の中、プロを目指す人間の頭の中に世界一流選手になろうという気持ちは必ずどこかにあるはずです。でも私は人間として一流を目指す事のほうが大切だと思います。」
今矢 直城
The story of Naocastle ~Null komma eins~ 最終章
I have come to discover through earnest personal experience and
dedicated learning that ultimately the greatest help is self-help;
that there is no other help but self-help
-- doing one's best, dedicating oneself wholeheartedly to a given task,
which happens to have no end but is an on-going process.
- Bruce Lee(1940-1973, Chinese-American Actor, Martial Artist, Author)
「自分の人生経験から学んだ事は、最後は自分しかいないという事
他の誰でもなく自分で自分自信を助ける以外にはない
目の前の事にベストを尽くし、自分の全てを捧げるということは
終わりなど無く、一生続けていくものである」
4月21日発の便に決めて、今度は片道チケットではなく1年間オープンのチケットを買いました。
観光ビザは3カ月間だけですが帰りの日程は12月中旬。
イメージは出来ていました。
6月か7月に契約。12月の冬休みにシドニーに戻ってリフレッシュ。
そんなイメージを持ちながら再びヨーロッパに渡り、チームが決まるまで200万円近くの費用が掛かってしまったのですが、奇跡的に7月中旬にドイツ3部のVFBリューベックとプロ契約を交わせることができました。
ドイツは3部と言えど、平均給料はスイスの1部より更に少しいいぐらいで練習内容も施設もブンデスリーガ1部に劣るともいえない完全なプロチームです。
テスト後、監督が評価した事はサッカーの実力もあると思うが、みんなとうまくやっていけて親しまれたキャラだと言う。
このコメントは正直嬉しかったです。
なぜなら、サッカー選手でいる限りブンデスリーガ1部やワールドカップというこの世界の一流選手になる事を目指していましたが、僕が一番目指しているのは一流の人間になる事。
僕にストレスが溜まっていようが周りの人には関係ない。やはりそういう状況でも道端で困っている人を見ればすぐに助け、人には優しく、状況がいい時と同じように振舞う強い人間になりたい。
ブルース.リーの言葉通り、落ち込んでいる自分や、今の自分を変えていこうとするにはやはり自助であり、自分を変えるしかないのでしょう。
このストーリーを読んで頂いた方はわかるように、僕も違う国に行って大きな荷物を運びまわすのは大変でした。見知らぬところに行った時に行きかたが全くわからなくて
これでほんまにあってんのかなあ?って心配になる事もありました。
言葉がわからなくて、馬鹿にされた事もありました。
だからこそ、目の前に荷物で困っている人がいればすぐに助けたり、迷っている人がいればなにか手助けが出来ないかどうかを尋ねて、今僕ができる事は全てしていきたい。
当たり前のことなんですけど、困っている人をすぐに助ける事はとても大事なことだと思います。
それにしてもドイツでの時間はほんとうに良かった。
語学も今回はヤル気があったので、9ヶ月間でかなり学べました。
この時改めて語学はやはりヤル気だと思いました。新しい事を頭に入れると言う事は非常に大変でストレスも溜まると思いますが、そこで何よりも必要なのはほんとうに喋りたいという気持ちだと思います。
現地の人間と会話をして認められたい…好きな子と会話をしたい…モチベーションは何でもいいと思います。
最初の何試合かは再びヨーロッパの舞台に立てた嬉しさと感動で、試合前の興奮を抑えるのに大変でしたが、それは決して悪い事ではないので良い状態で試合に臨める事ができました。
オーストラリアも球際は厳しいですが、ドイツの3部は更に厳しかったです。
大事な事だと思います。パスミスをしてもボールポゼッションを失ってしまいますが、
50/50の球際で負けても相手にボールを渡してしまうものと同じです。
逆にその球際でことごとく勝つとビッグチャンスであり試合を優位に運べるチームになれます。
だから練習でもタックルは厳しかった。
練習が終わってスパイクが足に入って血を流しているので治療室に行くと、
同じように足から血を流したり顔が泥まみれになっていてアイシングをしている選手が数人いて笑けるけどまるで戦争のようでした。
はあはあ言いながら、何もそこまでと思い無言でお互いの傷を見ながら目が合ったりすると首を振りながら吹き出してしまう事もありました。
ただ毎日戦っているという感じはあったし、やりがいがありました。
そんな感じですから喧嘩もあったけどドラマもありました。
その内の一つを紹介すると、5部リーグから上がって来たトルコ人選手がいて、
2部から降りてきたドイツ人選手などから彼は少し舐められている存在でした。
そのドイツ人選手の一人をラーム選手とでもしておきましょう。実は僕もリューベックに来て、2日目でラームとつかみ合いの喧嘩になったのですが、1週間後に逆に超仲良くなって友達に。
そして、トルコ人選手をドログバとしておきましょう。
練習中で既に激しくやり合っていた二人がとうとう限界を超えて、
ラームがかなり酷くドログバの家族やトルコ人の事を侮辱する発言を…
殴りにかかったドログバをチームメートが止めたのですが、その後練習が終わるまでの紅白戦中、公式戦なら一発レッドカード並みのタックルが10発ぐらい披露されました。
練習が終わって、この時普通ならピッチで起こった事は起こった事で握手をして仲直りするケースが結構あるのですが、この時は監督やキャプテンが散々言ってもそれは実行されませんでした。
ヨーロッパでは、だいたいどのチームも練習場に着き一人一人の選手と目を見ながら握手をするのが最低限のマナーです。
目を見ないで握手などをすると、その人を見下していると捉えられるからです。
ドログバとラームは3週間ほど握手さえもしませんでした。
僕はドログバとラーム、どちらとも仲が良かったので練習場がクラブハウスから遠かった時は一緒に車に乗って行ったりもしていました。
そしてその日、たまたま僕が運転する車に二人とも乗ってきて、
最初はかなり気まずい雰囲気だったのですが、いつの間にか二人は会話を始めていた。
そして更に1ヵ月後ぐらいのリーグ戦でラームが痛恨のクリアミスを犯して0-1とされる。
明らかにラームのせいで、みんなも一瞬呆れて、だるっ…て感じだったんですけど、真っ先にラームのところに走りつめたのがドログバであり、落ち込んでいるラームを抱えあげて、
「気にすんな!俺が絶対一点取ってやる!」
って言ったのがなんとドログバ。
そして更に10分後…
ドログバが、相手のミスパスから本当に1点を奪って1-1にしてしまう。
叫びながら二人は両手で熱くハイタッチをして抱き合っていた。
文化、バックグラウンド、肌の色、例え何がちがったとしてもサッカーボールがあれば1つになれる事は確信しています。
色んな場所に行って感じる事が、国、都市、その場所その場所で色んな空気とにおいがあると思います。光の色も違う。
こうして色んな事があったのですが、クラブの経営ミスで借金6億円以上となり、給料が入ってこない状況になり最終的にはクラブを出て行く事になったドイツ。
しかし空気やにおいや光の色は最高だでした。
人は良かったし、優しかった。
スイスでの日々があったからこそ、そういう風に見えたのかもしれませんが…
帰りたい日々がスイスでは続いたけど、我慢して残り厳しいところにいて成長できてほんとによかった。
そのおかげで今は何に対しても、そう簡単にはくじけないと思います。
個人的に僕が尊敬している選手は、一番苦しくて試合のメンバー等に入らない時でも、
居残ったり、知らないところで練習をしたり、そういう時にこそ余分な練習をしている選手。
そういう時って精神的に厳しいからほんとに難しいけど、そこでだいたい二つに分かれると思います。
実力もあったと思うが、そういう状況を乗り越えて成功した選手は山ほどいました。
確かに、前にも言ったようにサッカーなんて今やビジネスに過ぎず、選手なんかは価値を付けられて単なる道具にしかすぎません。
いい道具は常に使われ、あかんかったらすぐに捨てられる。
そのかわりほんとに人の心を動かせるのは選手だと思います。
ドイツに行った当初は、僕は3部から這い上がって1部でプレーをするのだと確信していました。
しかし、2部や1部の外人枠の選手とやりあったとき、差は0.1みたいなものなのですが、差を感じました。
ほんの少しの差。この差はいったいなんなんだろうとずっと思っていましたが、今思うとやはり積み重ねなの差だったのかなと思います。小さい時からずっと、プロになっても毎日の練習の真剣さが1~2%違ったのかなと最近思います。
結局ドイツでのシーズン後、僕は引退をしました。ドイツでのラストシーズンは最高でした!
そして現在はTouch of Class(TOC)というサッカーアカデミーなどを行っております。
海外挑戦を視野に入れた選手育成コース。サッカーと英語がメインです。
僕が海外で契約を出来た一つの大きなキーポイントは英語が喋れた事です。
TOCのプログラムは英語や僕自身が海外で経験したことを伝えるにはこれ以上の場所はないと現役を辞める3年前ぐらいから考えていた事です。
日本に来て、誰も知らない中とりあえず名刺を配り、会える人に会い数カ月ででその数は500を超えました。
そんな中で、信頼できる人と出会えたのはとても幸せな事です。
もちろん大変な事もありましたし、まだまだこれからもあると思います。
仕事としてはもっと世界と日本を繋げれる仕事を行いたいと思います。
そして来月の10月19日には株式会社Naocastleを立ち上げます。
僕の城(Naocastle)から世界に飛び立つ人材が増え、国と国が繋がっていく事を願っています!
まず最初は海外へのプログラムを事業として行おうと思います。
日本人が通じるところ、通じないところ、肌で感じてきて欲しいものです。
TOC同様ハングリーな人達のみだけのチャレンジ留学のようなプログラムですね。
オーストラリアへのプログラムはTAFE専門学校に通い、英語と資格を取得。
そこからオーストラリアの企業へ自分で売り込み。インターン等で入り認められれば向こうで就職。
もしくは得た物を日本の地で生かすために日本で就職活動。
どちらにしても、得るものは大きいと思います。
対象は18歳以上。
そして、もう一つはアメリカの大学へのサッカー推薦での留学。
これは英語の能力や歳にも(確か20歳まで)制限がありますが、非常に魅力的なプログラムになると思います。
TOCの子供たちが卒業した後に是非受けて欲しいプログラムです。
どちらの国も活躍すればヨーロッパの道は開かれると思います。
アメリカの場合はサッカーもしながら、アメリカの大学を卒業できるという素晴らしいメリットもついてきます。
もしかしたら、TOC卒業生がハーバード大学生になるのも全然ありえる話だと思います。
サッカーで、もし成功出来なくてもアメリカの大学を卒業するという事は英語もかなりマスターして、学歴も取れて終わるわけですから悪くないはずです。
対象は13歳~19歳ぐらいですかね。
今、何をするべきなのか?自分にあった仕事とは一体なんなんだろう?きっと、誰もが通る道で、悩んで答えを探そうとする事だと思います。
その悩む行為に、生きているという証拠があるのかもしれません。
今現在、もしくはこれから、海外へ言葉も文化もわからないところに
一人で行きそこで認められようと何かしらの結果を出そうと必死に努力している人達へ、
新しい事にチャレンジしようと思っている人達へ、壁にあたり何をしていいかわからない人達へ、
悩み事があり落ち込んでいる人達へ。
少しでもこのストーリーが勇気と元気を与える事ができたのであれば嬉しいです。
この最終章のタイトル、Null komma eins 0.1。. ドイツ語で、Null=0 komma=点 eins=1
色んな0.1の意味を含めています。
0.1%の可能性に向かって夢を追いかけながら僕が思った事は、雲の上の存在だと思っている人たちとの差は実は0.1の差。
現実と夢の間も0.1。 立ち止まる事があっても、0.1の勇気を振り絞るだけできっと自分の未来は変わります。
もお、ほんまにあかん…無理や…何度思ったことでしょう。
そこでも、0.1の差を埋めようとするかしないかでは結果は大きく変わってくると思います。
これからも色んな事に挑戦し、人生最後の一瞬までやりきりたい。
そして先ほども挙げたように、どんな世界にいたとしてもその世界の一流を目指していきますが、
なによりも強く優しい人間、そして僕がどんな状況にいても困っている人がいればすぐに助ける。
一流の人間を目指していきます。
このストーリーを読んで頂き、ほんとうにありがとうございました。
僕がここまで来れているのはあなたたちがいたからです!!
I AM HERE BECAUSE YOU GUYS WERE HERE!!
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「このサッカーという素晴らしい競技の中、プロを目指す人間の頭の中に世界一流選手になろうという気持ちは必ずどこかにあるはずです。でも私は人間として一流を目指す事のほうが大切だと思います。」
今矢 直城