The story of Naocastle ~15歳の時、クラブチームから外されて…~ 第三章
You have to expect things of yourself before you can do them.
- Michael Jordan(1963-, American Basketball Player, Actor)
「何かを成し遂げる前に、まず自分自身が出来ると思わなければいけない」
ここからはいよいよ話をサッカーに移します。
小さい時から、僕の夢はプロサッカー選手になる事であり、それ以外になるはずはないと勝手にずっと思っていました。
ただ、実力は飛びぬけてもいなかったし、体格も周りに比べるとかなり小さかったのが事実です。
13歳の時に所属していたクラブチームには、テストで合格して入ったものの、やっとのこそで試合に出られるくらいでした。
うまいチームなんかと対戦すると、相手の選手と自分との差が信じられなく大きく感じ、
こんなところで躓いていたら、プロの道なんか程遠いやん、なんて思いながらもかまわずフィールドを駆け回って、なぜかプロで出来ると言う気持ちは変わらず純粋にサッカーを続けていました。
この当時にいたユースチームには、ジュニアチームから僕の兄がいたU-17までのチームを含めると100人以上の選手が所属していたのですが、
最終的にプロになれたのは、僕と、オーストラリア代表のキャプテンとしても活躍している
LUCAS NEILL選手(当時15歳)だけでした。
僕と彼との間には、かなりの格差がありますが…
彼はこの当時から、ずば抜けていたもいいところやったし、ダントツにうまかった。
養子として育った彼は、おそらく色々と苦労もあったのか、
シドニーに帰り、バーなどで見かけてもけっして気取りもせず普通にそこにいるローカルだと
間違われてもおかしくないぐらい人としても凄く、尊敬できる素晴らしいプレーヤーの一人です。
そんな彼の2006年ワールドカップ、決勝トーナメントでイタリア戦に最後の最後にPKのファウルを犯し、0-1で負けた試合の事を振り返るインタビューを見た事があるのですが、
彼の目はものすごぐ輝いていました。絶対に勝てると信じてやっていた顔をしていて感動的でした。
しかしユース時代にそんなにうまかった周りの対戦相手の選手達も含めて多くが、なぜプロになろうとした道を二十歳にもならぬままに諦めていったのか…
道を迷いそうになる時もあるし、色んな誘惑も出てくる事でしょう。
僕もサッカー以外にも人生はあるだろうと思うし、サッカーを続けるには犠牲にしなければならない事も
出てくると思います。
しかしどんな道を選ぶにしても、今いるその場所で、できる事を精一杯やってる人はやはり美しい。
そして、その努力が又新しい道を生み出すのかもしれませんね。
そうして、中には麻薬、女、酒等に落ちていき、僕の周りには凄い能力を持った選手達が次々とサッカーを辞めていきました。
悲しい事ではありますが、それはその人が選んだ道であり、色んな訳があったのでしょう。
理由を一つ挙げるのならオーストラリアという国が豊富すぎて、色んな選択肢があるという事も一つの原因なのかも知れません。
その中で、どこの国に行っても、結果を出して活躍するブラジル人がいるのは、生まれ持った質と背負ってる物の大きさなのかもしれません。
小さい時から、このサッカーボール一つを巡るスポーツで、海外に行って家族を養っていこうと思う気持ちの強さもあると思います。
這い上がっていこうという気持ち、賭けている物と、ハングリー精神が違うのかも知れません。
そして今ヨーロッパで活躍する、何百人という数のオーストラリア人の選手達は、
オーストラリア特有の、“NEVER-SAY-DIE ATTITUDE”、“最後まで絶対に諦めない”という強い精神を持った選手たちなのだと思います。
話をシドニーに戻すと、この僕が育ったユース時代では、
強いユースチームと言えば、ギリシャ系、クロアチア系、イタリア系など人種別でかなり分かれていて、
アジア人がこういう強いチームに入れる事はほぼ不可能だったし、実際にいませんでした。
テストに行って、どんだけよくても、ことごとく落とされる。
そのテスト場のグラウンドまで、運転があまり上手でなかったのにも関わらず遠いところまで送り迎えをし、得体も知れない○○人のおっちゃんらが、ああでもねーこおでもねーとか言っている場所にお弁当を持参しながら、何時間も暗闇の中で待ってくれていた母には大感謝です。
母は偉大ですね。悔しかったのが、いつも送り迎えをしてもらったのにも関わらず、そういうチームに一度も合格できなった事が、非常に残念でした。
この時はよく泣いていました。
負け惜しみを言えば、まだアジア人が認めらてなかったのもあるのですがこれは人種差別と言うよりは、好き嫌いと先入観の問題だったと思います。
実力が同じぐらいなら、好きな方をとる。
僕がもしバスケの監督で、二人の選手が同じぐらいの実力であれば、正直一般的にうまいと思われる
黒人のほうをを獲ってしまうのかもしれません。
今では時代も変わり、どのユースチームにもアジア人がたくさんいて、元気そうにやっています。
こういう子達を見て少し羨ましいなと思ったりもしてしまいます。
実際には嬉しい事であって、この間も僕が1軍でプレーしていた、イタリア系のクラブ、
マルコーニ(このユースチームでやる事が実は小さい頃の目標でした)に知り合いの若い選手を送ったところ認めてくれて数年間オーストラリアでプレーをした後、現在はドイツでプレーを続けています。
少し手助けになれた事と、道を少し開けてあげられた事を思うと紹介してよかったなと思います。
そして題名に在るとおり、15歳までプレーしていたユースチームから今年は獲らないと言われます。
僕にとってはかなり衝撃的な事件でした。
そのチームは大して強くも無く、こんなところでクラブチームにも入られへんかったら、
プロなんか当然無理やと思って、相当落ち込んだものです。
実はその時、趣味でバスケも少ししていて、「サッカーは多分無理やからバスケにした
ら?」と母から言われ…
その当時は、なにをいうとんねん!って思ったもんですけど、親はやはり子供の事が一番大事。
子供の事を心配して言ってくれた言葉。
実際にサッカーを続けても無理って言うほうが現実的だったのは間違いない。笑
しかし、こういう事があるからこそ、逆にできるという事を証明したくなるのが、人間じゃないんですかね?
「お前は、絶対にプロになれない。」、って言う監督ももちろんいました。
そういう人たちがいたからこそ、僕は頑張れたんやなと思うと、そういう人々に一番感謝をしなければいけません。
そんな事がありながらも、やはり僕はプロになると決めて、1年間草サッカーをしながら
学校に行く前も帰ってからも猛練習の日々を続けていました。
そして翌年、プライドを捨てて前所属していたクラブチームのテストに再び行き、晴れて合格して再びチャンスを貰います。
そこから話をおもいっきり飛ばしてしまいますが、年度ごとに着実とステップアップをしていきながら、19歳の時に日本人初として豪州1部リーグのチームに移籍をし、その後色んなチームでプレーをする事が出来ました。
そして、小さい時からの夢であった、ヨーロッパでプロになりたいという思いが膨れ上がり、何があっても、とにかく行ってみる。行ってみないとわからへん。
自分の実力でどこまで通じるのかは実際に向こうに行って肌で感じてみなあかん!
と思い、とりあえず行ってみようと決めたのが22歳の時でした…
17年前に僕がSouth Melbourne Hellesというギリシャ系のチームのユースでプレーしていた時もアジア人は自分以外見た事がありませんでした。
今矢さんの話を読んで「プロになりたいという強い気持ち」が僕には足りなかったなあと再確認しました。まあそのおかげで今は目の前にあることに全力で取り組めるようになったので後悔はないです。
今矢さんが15歳でそういう精神的強さを持っていたことを尊敬します。
ブログ拝見させてもらいました!
とても感動しました…子供の時の自分の記憶が全然ない事に今愕いてます。。
信念を持ってプレーし続ける…とても素晴らしいです
BGS GEEKさん、
South Melbourneにいたんですね!
ほんと、今はだいぶ変わっていますよ。
いろんなチームにアジア人がいます。
そうですね、情熱があるものに全力で取り組める事が幸せですね。
偉大な選手さん、
コメントありがとうございます。
信念を持ってプレーをし続ける事はどのフィールドにいても大切ですね。
決して簡単な事ではないですが。
こんにちは、お久しぶりです。
「The story of Naocastle」何度も読み返してますが、
あきらめない強い意志を持ち続ける事、本当にすばらしいです。
マルコーニで、思い出しましたが、1995年くらいに、
日本のアマチュア無線の雑誌にこのチームのロゴを送った事が
あります。(電波塔のデザインで、マルコーニは無線電信の
発明者ですしね)
しばらくして、出版社からマグカップが送られてきました。
なつかしい・・・・・・
ぴっかぶーさん、
お久しぶりです。
ありがとうございます。
マルコーニはやはりあのマルコーニと関係があったのですね。
M7?沿いに工場らしきものもありましたっけ?
来週もお願いいたします!